武家地の払下に関する資料について、資料1を紹介する。また、参考として資料2から資料7の地租改正後の売買の規則や土地価格に関する資料を紹介する。
明治初期の払下に係る史料は、下記資料1のp.275によると、当時の都政史料館(現在の東京都公文書館)に保管されているとのことである。
資料1:明治新政府のもとで、どのように武家地を処理したかについて、都政史料館の史料をもとにまとめられた文献である。
p.122-123「府下地代之儀ニ付申上候書付」(明治4年6月)別紙「相当之地代箇所調」に、東京府に居住することになった旗本御家人その従者などの拝借地について、年額百坪あたりの地代とその対象地域が列挙されている。
p.212-214 「官員の邸宅欠乏はすさまじく、明治6年に入って、終に東京府は、長屋の払い下げ値段を決め、その壱割八歩をもって宿所に貸与することになり、諸官庁の官吏達にこの旨を通知することになった。」という説明とともに、明治6年4月27日発の表長屋の坪当たりの平均払値段金が掲載されている。例えば「表長屋内中門より西門迄 二百九拾三坪 但、壱坪ニ付、平均払値段金四円七拾五銭」のように書かれている。
p.243-249「地券発行地租収納規則」(明治5年1月)
第五 「(略)左の低価標準ヲ以テ払下代金高取極メ、上納可為致事。」として「低価標準 1.上等 千坪ニ付 金 二十五円 1.中等 同断ニ付 金二十円 1.下等 同断ニ付金十五円」とある。
また、p.270-284に、低価払下にかかわる記述があり、「拝借地低価払下地名書」(明治5年7月)として「(1)千坪に付、二十五円の土地、(2)千坪に付二十円の土地、(3)千坪に付、僅か十五円の土地」のそれぞれの該当地名が記載されている。(p.271-272)
また、さらに7月19日には千坪に付二十五円として追加の地名(「一ツ橋御門内ヨリ虎の御門内迄、夫ヨリ裏霞関桜田辺」)が定められたとある。(p.272)
p.278「不要土地邸宅の売却」には、明治6年以降、「入札払い」という形で売却を正式にやり出したとある。
また、p.281「官用地の処分方改正」部分に、「武家地の処理に関する上地命令といったことは、これで一切改称し、適正なる価格によって政府の買上げが行われることになった。武家地処理問題はこれを持って、終止符を打ったといってよい。」とある。
<参考:地租改正後の土地売買規則・価格に関する資料>
『東京市史稿』事項別索引で、「武家宅地」を引くと、「仕宅、武家地、武家邸宅、武家屋敷」も参照するよう案内されており、それらの事項から索引を調べて、明治以降の土地価格に関わると思われる部分を調べると資料2から資料6のような史料があった。
資料2:p.633「公用土地買上規則」(太政官達第132号明治8年7月28日
資料3:p.266-269[附記 二]土地売買譲渡規則(明治13年)
p.650-660[参考]土地価格貸地料調査(明治14年)
資料4:p.743 [附記 一]公用地買上ニ就キ伺(明治14年11月19日)
資料5:p.880[附記 十]土地買上規則追加(太政官達第64号 明治8年12月8日)
資料6:p.928-942 「東京市区改正土地建物処分規則公布セラル」(明治22年)「東京市区改正土地建物処分規則」
また、統計書にみる土地価格については資料7がある。
資料7:p.71-72「48 地価」市街地(朱引内にあたる第一大区から第六大区)の地価が、各区につき上等、中等、下等の3区分の「壱反価」が記載されている。