レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/09/19
- 登録日時
- 2008/04/04 02:11
- 更新日時
- 2016/07/13 11:29
- 管理番号
- 埼熊-2007-100
- 質問
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解決
北条氏康(1515~1571)の家臣である「伊達政充」の経歴と〈東北の伊達家〉との関係を知りたい。下山治久の著作に出ている可能性がある。
- 回答
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北条氏康家臣「伊達政充」の経歴が記載されている資料は見つからなかったが、下山治久編著作資料①や下記資料②④に〈政充〉の名が散見する。また資料③⑤には、本国、生国ともに〈陸奥〉とあり、東北の伊達家との関係をうかがい知ることができる。
詳細については、以下の関係資料を紹介する。
①『後北条氏家臣団人名辞典』(下山治久 東京堂)p394「だて(伊達)」の項
「寛政譜 巻1204」を引用し、越前守〈政充〉は北条氏康に仕え、その子〈宗春〉が徳川家康に仕えて小笠原長忠に属したと記述あり。その嫡子で岩槻太田の家老与兵衛〈房実(フサザネ)〉の項があり、詳しい記述がある。
②『寛政重修諸家譜 18』(続群書類従完成会)p275「伊達」未勘(出自不明)
の項に、〈政充〉の名および、〈房成(房実)〉から始まる系図あり。
③『寛政譜以降旗本家百科事典 3』(東洋書林)p1674に、〈房成(房実)〉から8代目の「政誉(マサタカ)」の項に、本国は陸奥と記述あり。
④『姓氏家系大辞典 2』p3528「武相の伊達氏」に、北条家臣伊達越前守〈政充(五郎、庄兵衛)〉-興兵衛宗春-興兵衛房成〈房実〉-房次、と簡略系図あり。家紋「立三引、蟹牡丹、九曜」と記載がある。
郷土資料から
⑤『浅子家文書目録資料抄録(大宮市文化財調査報告 4)』(大宮市教育委員会)p61「資料1 先祖書」(9代政誉の文書)については以下のとおり。
仙台中納言伊達大膳大夫藤原朝臣〈輝宗〉-〈重実〉-伊達越前守〈政統(政充か)〉-伊達与兵尉〈房実〉と記録され、資料①②等との矛盾が生じている。即ち〈輝宗〉は『寛政譜 12』p320、『系図纂要 4上』p133にあるが、〈重実・政統〉は見あたらず。
なお、本国・生国が陸奥とあることから、東北の伊達家との関係がわかる。家紋は「竹に雀・立三引・蟹牡丹」とあり、東北伊達氏(藤原氏山蔭流)の家紋「三引両・竹に雀・牡丹類」(『寛政重修諸家譜 12』より)との類似点が見られる。
⑥『岩槻市史 古代・中世資料編 2』p485-488には『寛政重修諸家譜 18』の系図の転載あり。
- 回答プロセス
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〈下山治久〉の著作資料にあたる。
『後北条氏家臣団人名辞典』の「伊達」の項に〈政充〉関連記述があったが、経歴は書かれていない。『記録御用所本 古文書 上』(東京堂)p299(No780)「徳川家康書状」の項に、伊達与兵衛(房実)の名があり、解説欄に「伊達氏は武蔵国の出身で、太田氏に仕える・・・」とあるが、質問に関する記述なし。『北条早雲と家臣団』(友隣堂)にも記述なし。
その他の歴史資料を調査する。
『国史大系 39(徳川実紀2)』(吉川弘文館)p365に〈伊達与兵衛〉の名があるが、政充の経歴、出自なし。『戦国合戦大事典 2』(新人物往来社)p133-136「岩付城の戦い」の項に、房実による城の明け渡しの状況が出ているが、該当の内容ではない。
『戦国人名事典』(新人物往来社)p497に〈伊達房実〉の経歴があるが、政充なし。
次に岩槻太田の家老〈房実〉から、岩槻関係の郷土資料を探すが、該当記述が見つからず。
《Google》を探索、県内郷土史家のWebサイトに、足立郡大和田村が中世末から明治期はじめまで伊達氏(旗本)の支配下にあったことから、「寛政譜」「大和田村浅子家文書」の伊達氏〈先祖書〉を引用している考察が見つかった。
『浅子家文書目録資料抄録(大宮市文化財調査報告 4)』収載「先祖書」の関連記述を確認する。各史料による矛盾点も含め、関係資料の紹介とした。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂)
- 『寛政重修諸家譜 18』(続群書類従完成会)
- 『寛政譜以降旗本家百科事典 3』(東洋書林)
- 『姓氏家系大辞典 2』
- 『浅子家文書目録資料抄録(大宮市文化財調査報告 4)』
- 『岩槻市史 古代・中世資料編 2』
- キーワード
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- 伊達 政充
- 伊達(氏)(ダテシ)
- 人名録
- 岩槻-大宮-埼玉県-歴史
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000043378