レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年10月21日
- 登録日時
- 2006/10/21 18:11
- 更新日時
- 2019/03/08 14:54
- 管理番号
- 宮崎県立般71
- 質問
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解決
現・宮崎空港は戦時中軍の飛行場として使われていたらしいが、その当時の飛行場について書かれた資料を探している。
- 回答
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①『宮崎県史 通史編 近・現代2』(宮崎県編発行)のP562-566「飛行場の建設着手」の部分に建設経緯・赤江飛行場宮崎海軍航空隊の沿革の記載あり。ここに紹介されている『赤江飛行場(宮崎海軍航空隊)の沿革』という資料は当館に未所蔵。
②『赤江郷土史』(石川恒太郎編 赤江振興会発行 昭和39年5月)P225-226「第二項 赤江飛行場の設置」に記載あり。
③『モスグリーンの青春』(安田郁子著 ジャプラン発行 1995年)随筆の中に著者が赤江飛行場にあった赤江海軍施設部に勤務時代のことが書かれている。P77-「第四章 赤江海軍施設部に勤める」
④『語りつぐ ふるさとの太平洋戦争』(「語りつぐ」編集委員会/編 宮崎県退職教職員連絡協議会 2002年)には、掩体壕(えんたいごう)についての解説、写真(モノクロ)があり、その大きさや、現在六基残るこの壕が当時三十基以上あったこと、中学生の勤労奉仕でつくられたことなどがわかる。(p99-100)
④『宮崎・南那珂・東諸の歴史』(甲斐亮典/発行 郷土出版社 2007年)のp210、p211には県史との重複もあるが、南郷町にある「人間魚雷回天訓練の地碑」の写真、宮崎市にある宮崎海軍航空隊の鎮魂碑の写真などの掲載がある。
⑤『血戦特攻隊の記録』(ツバサ広業出版部 平成12年)には宮崎県陸軍二四名、海軍四三名の戦死者名簿があるが、赤江から飛び立った特攻隊の方を判別は不可。
⑥『久遠の魂』(宮崎県遺族連合会)のp17には「赤江忠霊塔」の写真(モノクロ)が掲載されている。
⑦『赤江あの日あの頃』(赤江ふるさと塾/編・発行 2010年)には、佐藤正信氏による「赤江飛行場建設と特攻基地」という章がある。(p25-54)。
文献だけでなく地元の聞き取りを重ねた上での赤江飛行場ができるまでの事、赤江飛行場からの特攻機出撃の事、終戦時の飛行場の戦後処理の事についてまとめられている。また、現在残っている有蓋掩体壕(えんたいごう)の状態が記されている。
⑦『しらべる戦争遺跡の事典』(十菱駿武・菊池実/編 柏書房 2002年)のp255・226には「海軍宮崎航空隊赤江飛行場跡」として、弾薬庫と掩体壕の写真と掩体壕建設の経緯、敗戦末期に赤江から沖縄戦に出撃したことについて記載がある。
- 回答プロセス
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『写真集 宮崎100年』(宮崎日日新聞社事業局開発部/編 昭和57年)(M書庫748/237)を調べるが、本城、崎田の海軍飛行基地、富高海軍飛行場、都城飛行場などの写真の掲載はあるが、赤江飛行場については無い。
- 事前調査事項
- NDC
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- 航空運輸 (687 9版)
- 参考資料
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- 『しらべる戦争遺跡の事典』(十菱駿武・菊池実/編 柏書房)(部門別2106/820) (『血戦特攻隊の記録』(ツバサ広業出版部 平成12年)(M書庫2107/1010))
- 『久遠の魂』(宮崎県遺族連合会 昭和52年)(M書庫2819/51-1977)
- ④『語りつぐ ふるさとの太平洋戦争』(「語りつぐ」編集委員会/編 宮崎県退職教職員連絡協議会 2002年)(M書庫916カ/302)
- キーワード
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- 赤江海軍飛行場
- 宮崎海軍航空隊
- 掩体壕
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000031170