レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年08月19日
- 登録日時
- 2006/08/19 12:18
- 更新日時
- 2006/12/14 16:43
- 管理番号
- 地-060005
- 質問
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極東国際裁判(東京裁判)において死刑の判決を受けた東条英機はじめA級戦犯七名は、昭和23年12月23日、処刑の後、横浜の保土ヶ谷 にある火葬場で荼毘にふされた。それについて次の事を知りたい。
① 当時、この火葬場があった正確な所在地(住所、番地)と正式名称。
② 当時のこの火葬場の責任者の職名。
③ 現在もこの火葬場は同じ場所にあるのか。
- 回答
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① 極東国際裁判(東京裁判)において死刑の判決を受けた東条英機はじめA級戦犯七名が、昭和23年12月23日、処刑の後、荼毘にふされた火葬場については、横浜市西区元久保町三七にあった久保町火葬場(横浜市営)だと思われる。久保山火葬場と記してある資料が多いが、『横浜西区史』『ヨコハマ市政概要 昭和23年版』『横浜市職員録 昭和25年3月31日現在』によると、久保町火葬場が正式名称のようである。『横浜市職員録 昭和18年1月1日現在』には、久保町墓地火葬場事務所(横浜市中区元久保町三七ノ八)と久保山斎場(横浜市中区元久保町三)の両方が記されている。(当時まだ西区は設立されていない。昭和19年4月1日に新設された)。
② 当時の火葬場の責任者の職名は、昭和23年12月24日付の死刑執行を報じる神奈川新聞によると、管理人と表記されている。『横浜市職員録 昭和25年3月31日現在』では、場長という職名で記載されている。ただし、後に建立された供養塔の30周年供養法要の開催を報じる、昭和58年4月17日付の毎日新聞よこはま版では、斎場長と記されている。昭和23年の横浜市職員録は未所蔵のため、昭和23年の段階で斎場長という職名があったかどうかは不明。
③ 現在、横浜市西区元久保町3-1に久保山斎場(横浜市営)があり、昭和52年8月1日に住居表示が施行されたため住所は変わっているが、場所としては変わっていない。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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<参考資料>
『横浜西区史』(平成7年刊 横浜市西区史刊行委員会 K21.13/19)
『ヨコハマ市政概要 昭和23年版』(昭和24年刊 横浜市総務局統計課 K35.1/3/48)
『横浜の町名』(平成8年刊 横浜市市民局総務部住居表示課 K291.1/ 99B)
神奈川新聞 昭和23年12月24日
毎日新聞 昭和58年4月17日
『横浜市職員録 昭和25年3月31日現在』(K28.1/24/50)
『横浜市職員録 昭和18年1月1日現在』(K28.1/24/43)
『西区明細地図 昭和53年度版』(K292.13/2/78)
『西区明細地図 昭和51年度版』(K292.13/2/76)
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<参考資料>
- キーワード
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- 第二次世界大戦
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000030151