レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年05月23日
- 登録日時
- 2014/12/04 12:48
- 更新日時
- 2014/12/04 12:49
- 管理番号
- 市川20140501-e02
- 質問
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解決
江戸時代の東大寺建設の際、2本の材木を苦労して運んだそうだが、
どのようにして運ばれてきたのか、詳しく知りたい。関連資料は無いか。
- 回答
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所蔵資料『人物・遺産でさぐる日本の歴史 3平城京と天平文化』
(古川清行/著 小峰書店 1998.4)p.78に
「二本の材木を運ぶために」という見出しで詳しい記述がある。
「二七〇年ほど前、江戸時代のこと。大仏殿の修理をすることになった。
長さ25メートルほどの太い材木が二本必要だったのに奈良近辺では見つけられない。
やっと、はるか日向(宮崎)の山中に木があることがわかった。
その木を海辺にまで運ぶのに、のべ数十万の人手と、ウシ四〇〇〇頭が必要だった(中略)。
木津(京都府)に着いた材木を都まで運ぶのにも毎日二、三千人が手伝い、
半月あまりかかったと言われている(中略)。
大仏殿に使われた直径1メートルもの木をあつめ運ぶには
たいへんな苦労が必要だったにちがいない」とある。
『もっと知りたい東大寺の歴史』
(筒井 寛昭/著,梶谷 亮治/著,坂東 俊彦/著 東京美術 2010)には
p.84に、イラスト「総約900kmにも及ぶ虹梁の運搬ルート」及び、
江戸時代 古礀筆 紙本墨画淡彩「大仏殿虹梁小曳図」も掲載されている。
なお、虹梁とは寺社建築などに使われる、装飾を施した梁(はり)のことである。
同じくp.84において、「図は、元禄17年(1704)、大仏殿虹梁とするために
日向国白鳥山中から切り出された材木を、海路及び淀川・木津川を経由し、木津まで運んだものを、
木津からは陸路東大寺に運ぶ難儀な様子を描いたもので、
綱曳く人物、野次馬などの雑踏がいきいきと描写されている。」、
「長さ十三間(二三メートル)もある大木の陸上運送は
『寄進引き』と称して数千人の人びとが綱を引いた」とある。以上のことを利用者に伝えた。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 芸術史.美術史 (702 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000163977