レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年09月11日
- 登録日時
- 2012/12/18 14:46
- 更新日時
- 2012/12/26 11:04
- 管理番号
- 新県図-01254
- 質問
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解決
以下の上杉関係文献の現存状況および所蔵状況を知りたい(その2)。
1 上杉遺伝
2 古邑談
3 越後風俗考
4 鈴木訥叟随筆
- 回答
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1 上杉遺伝
書名は『越後風俗志』1輯p3に出ています。また、『越後風俗志』の編集者は大平与文次、発行者は息子の大平覚太郎ですが、『越後風俗志』以前に、同様の名義で発行していた『越の寄せ文』12号~23号に「上杉遺伝中證書類抜粋」として連載記事があります。しかし、詳細については確認できません。
2 古邑談
『越後風俗志』1輯p3に「宝暦年中山本老迂斎遺稿5巻(全)」とあり、p36「山本老迂斎」の項に「氏は諱名義方通称勘右衛門宝暦年中の人にして長岡城主牧野家世襲の家老職たり食録高千五百石を領す天稟の性質温厚篤実喜怒色に顕はれず而して学博く識高く事を理するに明断果決衆みな敬服す晩年に至り仕を辞し文墨を以て友とし自ら領内を巡歴し名所旧跡及び神社仏閣をたづね録ぢて数巻の書と成す古邑談等是なり今稀に伝はりて著名の物たり」とあります。
『越後風俗志』にこの書からの引用がありますが、『古邑談』の原本・写本は確認されていません。
ちなみに『ふるさと長岡の人びと』(長岡市/編 長岡市 1998 N281.4/N18)の「山本老迂斎」の項には、『古邑談』への言及がありません。また『国書総目録』にも採られておらず、現物は失われてしまったと考えられます。
3 越後風俗考
『越後風俗志』1輯p3に「永禄天正年間釈日正遺稿5巻(未全)」とあり、釈日正について同書p33に「師は下総国結城郡結城に生れ京都日蓮宗本国寺日禎の上弟にして博学多才を以て世に鳴る上杉謙信これを慕ふの余り数回の招聘使を遣はし当国に迎へ刈羽郡柏崎町に妙楽寺(天正18年より本妙寺と改む)と云へる一宇を建立し個々に爰に住職たらしめ常に本城へ召れて軍機に会し或は軍陣に随従し又は敵国へ使して其功を果し国威を輝かせしこと屡々あり景勝の時代に至り春日山毘沙門堂の別当に補せられり士民の信憑厚し常に国学を好み遥に古人の跡を慕ふて越後風俗考と題し5巻を手稿せしと云ふ何か遺恨を挟む者の為めにや天正16年五月9日夜柏崎町に於て暗殺せらる時に年55才同寺境内に墳墓あり寛永年中同寺火災に罹る此時彼の風俗考3巻を取出すと今之を閲するに紙端しみな焼尽せしと雖も墨跡に及はず立文俗にして物真に迫るが如し其全きを得ざるは遺憾の事共なり」とあります。つまり、5巻のうち3巻が残っているとあり、また、『越後風俗志』には最も多く引用されています。しかし『国書総目録』には出ておらず、現物は確認されていません。
4 鈴木訥叟随筆
『越後風俗志』1輯にはこの書物への言及はありませんが、後の号には引用が掲載されています。また、『ふるさと長岡の人びと』p79の「鈴木訥叟」の項には「三島郡才津村(長岡市才津町)の水沢家に生れた。幼名新六.順之丞、総之丞と改名した。11歳で、古志郡加津保村(長岡市加津保町)の鈴木家の養子となった。長岡領北組割元、古志郡栖吉村(長岡市栖吉町)庄屋兼務を命じられ、治績をあげた。明治になると、小林虎三郎に感化され教育の大切さを村人に説き、古志郡桂沢村(長岡市桂町)の寺に仮学校を設けた。また三島億二郎らの殖産興業策に共鳴して明治6年(1873)、屋敷地と土手に茶畑を造成し、製茶園を営む。一方、農村の生活改善にも努め「加津保村風俗改良誌」をまとめた。三島億二郎らと北海道を視察し、北海道開拓事業に協力した。また、幕末から明治にかけて数十冊の日記を残しそれが貴重な資料となった。」とあります。なお、『越後風俗志』2輯p35にも鈴木訥叟の略歴が記されており、その中に随筆についての記述が以下のとおりあります。
「維新の際官に召さるるも固く辞して仕へず身を耕耘に委ね閑あれば即ち遍く四方に遊ひ深く地理人情風俗を視察し細大となく意見を加へて記せざるは無し氏書を読み事を記するに当てや必ず閑静の処に於てす即ち邸内に隣る赤坂てふに方一丈の草庵を構へ名けて擬妙喜庵と云ひ茲に端坐し或は古書を繙き或は吟咏し或は著述に従ふ彼の有名なる著書擬妙随筆は実に此庵中より生れ出たるものなり」
『ふるさと長岡の人びと』中の「数十冊の日記」と、『越後風俗志』2輯中の「擬妙随筆」が同じものか否かははっきりしませんが、鈴木訥叟の随筆が残っていることは確かなようです。しかしながらこれ以上のことは確認できません。
最後に、『越後風俗志』に関して若干補足させていただきます。
編集者大平与文次については、『ふるさと長岡の人びと』p156に「大平与文次(おおだいら よぶんじ)(1839-1896)三島郡浦村(越路町浦)に生まれた。長岡で明治15年(1882)「長岡日報」を発行。23年から3年間にわたって、長岡の温古談話会から『温古の栞』36編を刊行し、郷土研究の先べんをつけた。26年、『越のよせふみ』25冊を、28年、『越後風俗志』8冊を刊行した。また、山岳会の振興にも尽力し、弥彦山山頂に彼のレリーフがある。」とあり、雑誌を刊行していたことがわかります。このうち、『越後風俗志』1輯p3に「日正の越後風俗考。掃部の越後記録。随軒の越後余情。俊意の越後巡杖記。凌雲の越後風土考。政道要覧。老迂斎の古邑談を始め実に得難き遺稿は今や蠶損大半字形僅かに存し先輩の熱血を注かれたる冊子将さに煙滅に帰せんとするの憂あり故に其全部或は要点を採択し尚識者の意見を叩き慎重訂正増補を施し之を数十輯に分ち続々発行せんと欲す」と、雑誌の発行意図が記されています。けれども『越後風俗志』は8輯で中断しました。与文次の病気、死去のためと考えられています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 北陸地方 (214 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 上杉家
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000115959