レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年2月5日
- 登録日時
- 2012/02/23 10:54
- 更新日時
- 2012/12/26 11:07
- 管理番号
- 新県図-01190
- 質問
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解決
井上英(ひで)の経歴がわかる資料を探している。昭和11年9月から13年11月まで旭川市長を務めた後、新潟市長に就任したとのことである。
- 回答
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(1)『越佐人物誌』上巻(牧田利平/編 野島出版 1972)p63には次のようにあります。
新潟市長。[中略]昭和5年1月佐賀郡知事、6年1月台湾総督府警察部長、11年9月旭川市長。13年12月新潟市長に就任、21年11月8日まで2期間勤務した。(新潟県年鑑)
文中の「佐賀郡知事」は「佐賀県知事」の誤りと思われます。出典の『新潟県年鑑』を数年分確認したところ、新潟市長任期中には簡単な略歴が掲載されています。しかし、退任後には記載がなく、何年の発行のものに基づいた記述かはわかりませんでした。
(2)『新潟市史 通史編』4 近代下(新潟市史編さん近代史部会/編 新潟市 1997)には、p255~256,p344,p348に記述があります。
また、当時の市会の動向を詳しく記しているのが『新潟市政進展史』第3巻(新潟市政進展史編さん部/編・発行 1968)で、随所に井上の動向が記されています。そのうち、「井上市長退職」の項では、次のように総括しています(p543)。
井上市長は、昭和12年12月旭川市長から来任以来2期に及び、本年12月5日をもって任期満了となるが、次期市長に立候補できるかどうか資格審査のため内務省の見解を打診したが、一切はマッカーサー司令部の決定によることで、11月中には追放に該当するか否かが確定するが、井上市長は任期満了を待たず、11月6日市会協議会の席上、一身上の都合で退職したいと辞意を表明した。これに対し市会側では、8日緊急臨時市会を開き正式に承認して、井上市長は円満退職することになった。井上市長は、埼玉県浦和町の出身で当時61才、昭和5年東京帝国大学を卒業して官界にはいり、佐賀県知事、同6年台湾総督府警務局長を歴任し、退官後昭和11年旭川市長に就任し、任期中辞職して、昭和13年12月かつて県警察部長として勤務したことのある本市の市長に来任して2期に及んだ。その間戦時中であったが、新潟港問題、市役所庁舎新築、隣村合併、学校改築等多くの功績をあげ、さらに戦時中は、市民の食糧問題、燃料問題等市民生活の問題解決のため奔走したことは、市民のひとしく感謝するところであり、円満明朗な市長として市民に親しまれた。
(3)『日本の歴代市長』第2巻(歴代知事編纂会/編・発行 1984)p50に「井上英」が出ていますが、前半の職歴部分は『新潟市政進展史』第3巻と同内容です。後半部分は以下のとおりです。
太平洋戦争を中にはさんでの井上市政は、国家と帰趨を共にせざるを得なかった。昭和14年新潟市警防団結成、新潟海軍人事部開庁、昭和15年連隊区司令部設置、非常時体制に即応するため市政調査会設置、昭和19年兵器廠支所等設置、そして昭和20年新潟市空襲、さらには原爆が新潟市投下の公算大なりと、市民の緊急疎開が布告されるなど新潟市政は戦時色一色に塗り込められた。8年に及ぶ在任期間で、井上市長にとって晴れがましい出来事といえば昭和14年4月17日の市制施行50周年記念式、昭和17年1月の新庁舎竣工ぐらい。戦後は、食糧確保が第一の任務であった。市民から米の配給要求を突き付けられた井上市長は、新米の入荷に飛び回り、配給再開に漕ぎつけたが、市政担当への意欲は次第に弱められていったのも確かだろう。
『新潟市政進展史』第3巻、『日本の歴代市長』第2巻ともに、昭和5年東京帝国大学卒業、すぐに佐賀県知事となったとしていますが、『日本の歴代市長』第1巻p74にあるように、大正元年文官高等試験に合格、翌年東京帝国大学卒業というのが正しいと思われます。『日本官僚制総合事典』1868-2000(秦郁彦/編 東京大学出版会 2001)p203の「高等試験合格者一覧」大正1年11月の中にその名が見えます。したがって『越佐人物誌』の明治40年東京帝国大学卒という記述も誤りと思われます。
なお、名前の読みですが、当館の資料では、はっきりした読みがわからないためか、どの資料も音読みで「えい」としています。ちなみに『新編日本の歴代知事』p998下段の「井上英」の項にも、「えい」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 井上英
- 新潟市長
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000102152