レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年02月15日
- 登録日時
- 2013/03/12 16:30
- 更新日時
- 2013/06/05 13:57
- 管理番号
- 埼熊-2012-262
- 質問
-
解決
江戸城開城についての勝海舟・西郷隆盛会談の前に、イギリス公使パークスが両者に対し、「万国公法」の遵守を強く要請したとのことであるが、そのことについて詳しく知りたい。
- 回答
-
パークスが「万国公法」の遵守を説いたのは、勝・西郷会談の前の木梨精一郎との会談。勝と西郷の両者に直接要請したとの記述は見つからなかった。
関連する記述のあった以下の資料を紹介した。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 7』(萩原延壽著 朝日新聞社 2000)
p19-47勝・西郷の会談へのパークスの影響について記述あり。
p22-23木梨とパークスの会談に関する記述あり。
p26木梨に対するパークスの発言内容中に「是ハ万国公法ニ御座候。」の一文あり。(「復古攬要」からの引用)
p76-78「パークスの圧力」に関する記述あり。
『維新の内乱』(石井孝著 至誠堂 1968)
p69-70「あたかもこの一三日、木梨精一郎は、西郷の意を受けて横浜でパークスと会見した。この会見でパークスは、「慶喜が恭順の意を表して謹慎している以上、慶喜を死におとしいれる道理はないから助命されたい。江戸城を受取りさえすれば、朝廷の目的は貫徹するはずである。これは、万国公法の道理にもかなったことである」と圧力を加えてきた。」とあり。「この一三日」とは明治元年3月13日のことである。
『明治維新の国際的環境 増訂』(石井孝著 吉川弘文館 1982)
p832-843「英国公使パークスの江戸城攻撃反対意向」に関連の記述あり。
『新編江藤淳文学集成 3 勝海舟論集他』(江藤淳著 河出書房新社 1985)
p102-103パークスと木梨との会談と万国公法についての記述あり。
大岡昇平「堺港攘夷始末 第14回」(『中央公論 文藝特集 1988年夏季』p30-38 中央公論社 1988)
p37に「東征軍参謀木梨精一郎が横浜に到りパークスに面会を求めた。(中略)パークスが恭順している者を討つのは万国公法にない」といったので「西郷は恐れて(中略)事実そのような風聞が記録されている(「春嶽私記」など)。」とあり。
また、これについては、萩原延壽氏の「遠い崖」に詳しいとあり。(当時『朝日新聞』に連載中)
『歴史人物辞典』(山口康助〔ほか〕編 ぎょうせい 1976)
p167「またパークスの助言というのは、「万国の公法によれば、一国の政権をとりたるものは、罪するに死をもってせず、いはんや徳川公これまで天下の政権をとりたるのみにあらず、神祖以来数百年太平をいたすの旧業あり、徳川公をして死にいたらしむるは公法にあらず、新政にこの挙あらば、英仏合同徳川氏をたすけて、新政府を討つべし」というものであった。」
『沖縄にきた明治の人物群像』(太田良博著 月刊沖縄社 1980)
p173-202に、パークスとの交渉の様子が描かれている。
p177上段に以下の記述あり。「そのとき、天皇は、朝廷を支持するベテラン外交官パークス卿に、いろいろ下問し、それに対してパークスは、万国公法を尊重すべきことなど親しく答え、本国政府にも、この会見の成功を報告している。つまり、パークスは朝廷とすでに外交関係をむすんでいたわけである。」
p180下段に以下の記述あり。「イギリス公使パークスは、木梨精一郎と渡辺清左衛門に対して、官軍が謹慎中の徳川慶喜をしいて罪人にしようとするのは、万国公法の立場からも好ましくないし…(以下略)」
『開国の先覚者小栗上野介』(蜷川新著 千代田書院 1953)
p140「西郷は、慶応4年3月13日、その参謀を、横浜に特使して、すでに中立を宣言したイギリス公使の、パークスに、「江戸砲撃の戦争による死傷者救助」を得ようとねがいでて、公使から中立国の義務を説かれ(後略)」とあり。
p150「参謀木梨はパークスに面談し、パークスにたのみ、パークスからその不当の考え方を責められた。」とあり。
- 回答プロセス
-
自館目録を〈パークス〉や〈江戸 & 開城〉で検索し、パークスの伝記を調査するが該当の記述は見つからず。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 7』(萩原延壽著 朝日新聞社 2000)に関連する記述が見つかる。
参考資料を確認する。
《Googlebooks》を〈パークス & 万国公法〉で検索する。
『維新の内乱』(石井孝著 至誠堂 1968)、『明治維新の国際的環境 増訂』(石井孝著 吉川弘文館 1982)に関連する記述あり。
西郷隆盛から探す
『西郷隆盛 維新前夜の群像 6 下』(井上清著 中央公論社 1970)
p86-87に、3月13日木梨がパークスと交渉した際、後日西郷がパークスを訪ねた際の記述に、「万国公法」に関する言及あり。
雑誌記事を探す
田中 時彦「大英帝国の使者パークス(そこで彼らはやって来た-明治維新の国際環境(特集))」(『中央公論 1971年6月増刊号』p148-156)
パークスの人物像については詳しいが、「万国公法」についての記述なし。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
-
- 『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 7』(萩原延壽著 朝日新聞社 2000)
- 『維新の内乱』(石井孝著 至誠堂 1968)
- 『新編江藤淳文学集成 3 勝海舟論集他』(江藤淳著 河出書房新社 1985)
- 『歴史人物辞典』(山口康助〔ほか〕編 ぎょうせい 1976)
- 『沖縄にきた明治の人物群像』(太田良博著 月刊沖縄社 1980)
- 『開国の先覚者小栗上野介』(蜷川新著 千代田書院 1953)
- キーワード
-
- 江戸城
- 明治維新
- Parkes Harry Smith(パークス ハーリー スミス)
- 勝 海舟(カツ カイシュウ
- 西郷 隆盛(サイゴウ タカモリ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000128784