1 『写真レファレンス事典』から所蔵資料にあたる
『写真レファレンス事典』街並み・風景篇1 東京 明治~昭和20年代(日外アソシエーツ編 日外アソシエーツ 2020)索引p.509「千住遊廓(大正)」から以下の資料にあたる。
【資料1】p.26「関東大震災 2」に崩れた建物の写真1枚あり。「千住町遊廓大門入り口より北を望む」とあり。
【資料2】p.11-1「千住遊廓大門」と記載された写真あり。「千住柳町に遊廓ができたのは大正8年。関東大震災(大正12年)以降は板橋・吉原などからも移ってきて、56軒の楼が立ち並び繁盛した」の記述あり。
『写真レファレンス事典』街並み・風景篇2 東京 昭和30年代~平成(日外アソシエーツ編 日外アソシエーツ 2020)索引p.578「千住柳町(昭和)」から以下の資料にあたる。
【資料1】p.126 昭和36「かつての千住のくるわ」の写真。
【資料2】p.35-3「紅灯の消えた千住柳町」の写真。「大正8年、千住4丁目飛地(昭和3年千住柳町と改称)に区画をつくり、11軒の妓楼が建てられてから年々繁盛をつづけ、柳町は不夜城の観があった。しかし、昭和32年5月1日売春禁止法が布かれ下宿屋街に転向した」の記述あり。
2 他の足立区資料にあたる
【資料3】p.250に3枚の写真あり。うち2枚は「千住遊廓跡の街並み」1962(昭和37)年と1974(昭和49)年。1枚は【資料2】p.11-1と同じ写真で「「千住遊廓大門前料亭」1922(大正11)年頃「千住案内」より」とあり。
【資料4】この資料は「大正11年2月発行の初版本を昭和55年に複写した」ものを復刻したとあるので出版当時の写真が見られる。p.117【資料2】の「千住遊廓大門前料亭」と同じ写真あり。「千住遊廓 大門前 料理店 花月亭」と記載されている。他にp.118「千住遊廓 中田楼」p.119「千住遊廓 永岡楼」p.120「千住遊廓 大塚楼」の写真はあるが「正直楼」の写真はなし。
3 地図にあたる
『昭和前期日本商工地図集成』第1期(日本千須資料編纂会編 柏書房 1987)p.47の地図に「千住遊廓事務所」と「広島楼」「楼魁」の記載は見られるが「正直楼」なし。
『帝都地形図』(井口悦男編 之潮 2005)別冊索引から2巻p.158に導かれる。【資料2】【資料3】と同じ「千住遊郭大門」の写真あり。p.157の地図(昭和3年1月)「千住4丁目飛地」に「千住遊廓」の記載はあるが名称の記載はない。
【資料5】「正直楼」あり。
他に見た資料
『東京懐しの街角』(加藤嶺夫著 河出書房新社 2001)
『足立区の昭和』写真アルバム(いき出版 2006)
『目で見る足立・荒川の100年』(野尻かおる監修 郷土出版社 2005)
『東京の消えた風景』(加藤嶺夫著 小学館 2003)