レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/11/25
- 登録日時
- 2008/07/02 02:10
- 更新日時
- 2008/07/02 02:10
- 管理番号
- tr139
- 質問
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解決
『弓矢の偉人 那須餘一宗隆』の著者、森本樵作の生没年を知りたい。
- 回答
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『下野史談 第3巻第2号』(田代黒瀧/編 下野史談会 1926)p26-27、「森本樵作氏経歴」に、以下の記述があります
「大正十五年一月二十八日愛知県立岡崎病院に入院せしが治療叶はず、二月一日午前五時半溘焉として逝きぬ惜別の情に堪えず。 法名 俊學誠道居士」
この記述から、森本樵作の没年月日は大正15年(1926)2月1日と判りました。
- 回答プロセス
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1.森本樵作(もりもと,しょうさく)の出身地について
『弓矢の偉人 那須餘一宗隆』(森本樵作/著 宇都宮 亀田書店 1916)の自序によれば
「私の郷里は、屋島を西に距ること二十里余里の、東豫の海辺であるので、那須与一宗隆の功名話に就つきては、既に父の手に抱かれたる頃より、(略)」
とあり、愛媛県東予市の出身と思われます。
2.『弓矢の偉人 那須餘一宗隆』(大正5年)刊行時の職業について
前掲書によれば、刊行時は栃木県女子師範学校の「訓導」(現在の、教諭に当たる。『大辞林 第2版』(松村明/編 三省堂編集所/編 三省堂 1998))でした。
○栃木県女子師範学校について
明治38年開校、昭和18年栃木師範学校と統合。昭和24年宇都宮大学となる。参考:『学校名変遷総覧 大学・高校 編』(日外アソシエーツ/編 日外アソシエーツ 2006)による。
3.栃木県女子師範学校での森本樵作
『栃木県女子師範学校記要(ママ) 大正12年』(栃木県女子師範学校/編 栃木県女子師範学校 1923)の「旧職員」(名簿)p48によれば、
「明治42年8月31日就職。大正8年10月1日転任。」
とあり、転任先については記述がありません。この資料には、「族籍」という欄があり「東京府」となっています。
『弓矢の偉人 那須餘一宗隆』に序文を寄せた、高桑駒吉(東京)によれば、 高桑が、雑誌「史学界」を主宰していた明治34年当時、森本は高桑の助手を勤めていたとあります。
4.その他、主な調査資料
a.『宇都宮大学教育学部百十五年史』(宇都宮大学教育学部史編纂委員会/編 宇都宮大学教育学部 1989)
b.『野州紳士録』(金澤源太郎/編 野州新聞社 1915)
c.『野州名鑑 昭和6年版』(遠藤健三郎/編 下野新聞社 1931)
d.『栃木県女子師範学校拾周年記念写真帳』(栃木県女子師範学校/編 1914)
e.『栃木県歴史人物事典』 (栃木県歴史人物事典編纂委員会/編 下野新聞社 1995)
以上の資料には記載がありませんでした。
5.寄稿雑誌からの調査
再度当館資料の検索を行うと、森本樵作は『下野史談』に度々寄稿していることが分かりました。
そこで、『下野史談』内に樵作逝去にあたっての記事がないか調査したところ、『下野史談 第3巻第2号』(田代黒瀧/編 下野史談会 1926)p26-27に、「森本樵作氏経歴」という記事が見つかりました。
その記事の末尾に、以下の記述があります。
「大正十五年一月二十八日愛知県立岡崎病院に入院せしが治療叶はず、二月一日午前五時半溘焉として逝きぬ惜別の情に堪えず。 法名 俊學誠道居士」
この記述から、森本樵作の没年月日は大正15年(1926)2月1日と判りました。
- 事前調査事項
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香川県立図書館より照会。
事前調査事項は以下のとおり。
(1)栃木県立図書館WebOPACで「森本樵作」の著作として次のものが検索される。
・下野之史蹟名所 第壹編 森本樵作/共著 下野之史蹟名所刊行会 1918 図書
・弓矢の偉人 那須餘一宗隆 森本樵作/著 亀田書店 1916 図書
(2)NDLOPACの典拠にも生没年は記されていない。
(3)近代デジタルライブラリーでも、著作権処理は文化庁長官裁定となっている。
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 森本樵作
- 栃木県女子師範学校
- 生没年
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000045456