レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月20日
- 登録日時
- 2012/02/23 11:01
- 更新日時
- 2012/03/02 08:53
- 管理番号
- 2009-0057
- 質問
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解決
上山出身の医師 大森治豊(おおもり はるとよ)について書かれている資料はあるか。
- 回答
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当館では下記の資料を所蔵しております。
資料①は、大森と同郷の上山の医師 宇留野勝弥が著した氏の伝記です。大森の「上山時代」から「大学東校時代」「福岡医学校時代」までの記述のみならず、明治18年4月、帝王切開を成功した時の様子や氏の研究成果、さらには氏の人柄や趣味、逸話まで、幅広くまとめられています。
資料②には、資料①の著者 宇留野が同資料を編集出版するに至ったきっかけ、経緯などが記されています。
資料③は、宇留野による講演録です。大森の経歴のほか、大森に関する逸話などにも触れています。
資料④のP15に、宇留野の「先輩大森治豊先生」と題した寄稿文が掲載されており、そのなかで、知人が大森を評して言った言葉「先生が世人の尊敬をうけたのは、単に学術的業績や、実地的手腕や又は医学の指導者としてまた、病院の代表者として政治的手腕を有していたからのみでなく、その人格が高潔で、徳風を以って衆を率い、よく後進を扶棭し・・・・・・名利の念なく、蓄財の心なく、恬淡として只智斯界のためその所思を遂行されたもの」が紹介されています。
資料⑤P139および資料⑥P52~53には、大森が大学卒業と同時に済生館就任が内定していたにもかかわらず、条件面で折り合わず、福岡医学校教師兼福岡公立病院長心得に就いたことが記載してあります。
なお、大森を「わが国における腹部内臓外科手術の先駆者」と記載しています。
資料⑦P171~172には、みちのくの育ちであるが、ふるさとを離れてみちのく以外の地で活躍された医人の一人として、大森治豊が紹介されています。大森の業績の1つとして「明治18年4月28日、池田陽一と共に福岡病院で瘢痕性膣狭窄症の患者に対して、ポロー氏帝王切開術を施して母児を救う」と記されています。
資料⑧P188~191では、大森が奉職先として福岡医学校を選んだことについて、大森自身なにも語っておらず、想像の域を出ないがとして、「後に大森が見せる九州医科大学への情熱、特に、豊富な石炭を利用して、付属病院に蒸気暖房設備を取り入れたことなどを考え合わせると、彼が九州の地理的条件まで考慮していたことは確かだ」と記述しています。
また、帝王切開以来、大森の名は九州全土に響きわたっていたが、大森は胃がんの手術でも卓越しており、明治38年の外科学会には、大森が執刀した手術例三百余が報告され、出席者を大いに驚かせたと記されています。
資料⑨P156~157では、「上山出身の医人たち」と題して、外科の神さまと称せられた大森、西園寺公の主治医であった名古屋大学の勝沼精蔵、薬学界の長老朝比奈泰彦博士について記載がされています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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明治18年、帝王切開手術に成功するなど、内臓外科分野を開拓し、外科の神様と呼ばれた医師であること。
- NDC
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- 日本 (281 9版)
- 医学 (490 9版)
- 参考資料
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資料①医傑大森先生の生涯/宇留野勝弥/1961(YK289.1/オオ)
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資料②年頭所感(九大創設者大森先生のこと)/宇留野勝弥/1972(YK289.1/オオ)
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資料③私の尊敬する偉大なる先輩/宇留野勝弥編/1966(YK289.1/オオ)
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資料④山形県医師会会報第13号/山形県医師会編/1958(KS490/ヤマ/13)
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資料⑤山形市医師会史(前編)/山形市医師会史編纂委員会編/1979(YK490.6/ヤマ/1)
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資料⑥済生館史 /後藤嘉一/1966(YK498.19/ゴト)
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資料⑦みちのくの産婦人科小史 /第十三回日母大会実行委員会編/1986(K495/ダイ)
- 資料⑧山形新人国記 上 /読売新聞山形支局編/1978(K280/ヨミ/1)
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資料⑨医界風土記 北海道・東北篇/日本医師会編/1994(490.21/ニホ/1)
※( )は当館の請求記号です。
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資料①医傑大森先生の生涯/宇留野勝弥/1961(YK289.1/オオ)
- キーワード
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- 大森治豊
- 福岡医学校
- 帝王切開手術
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000102135