レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/01/09
- 登録日時
- 2010/06/17 02:01
- 更新日時
- 2010/07/13 15:01
- 管理番号
- 埼浦-2009-076
- 質問
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解決
旧浦和市にあった都北高等学校について、沿革や創立者のことなどを知りたい。この学校の前身は埼玉中学校だった。
- 回答
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次の資料を紹介する。
『埼玉大百科事典 2』(埼玉新聞社 1974)
p353「埼玉中学校」の項によると、昭和6年中野等氏が、私立恵仁中学校を設立(同年7月に私立埼玉中学校と改称)してから学校法人都北学院に至る経緯について記述あり。さらに私立浦和第一高等学校と改称し、昭和30年浦和市に移管、浦和市立都北高等学校となり浦和市立高等学校に併設し、昭和32年4月制度上は浦和市立高等学校に合併され、実質的に廃校となったことが記されている。
『埼玉県教育史 5』(埼玉県教育委員会 1972)
p324-325「私立中学校」の項に、財団法人恵仁中学校が設置されてから都北学院高等学校となる経緯が記されている。
『浦和市制二十年史』(浦和市 1955)
p433高等学校全日制の一覧に「都北学院 (校長)中野等 (所在地)領家1,500 (開設年月)昭和29,2」とあり。
p454年譜「昭和6年3月 中野等氏、領家1,500に私立恵仁中学校を開設。」「昭和6年7月私立恵仁中学校を私立埼玉中学校と改称。」
p460年譜「昭和23年4月 中野等氏、学校法人埼玉高等学校開設。」
p466年譜「昭和29年2月 中野等氏、学校法人埼玉高等学校を学校法人都北学院と改称(後略)」
『創立五十周年記念誌』(記念誌編集委員会編 浦和市立高等学校 1989)
p27年表「昭和30.3.31 浦和市本太中学校校舎を併合し、浦和市立都北高等学校と共用す。」「昭和32.4.1 浦和市立都北高等学校と制度上合併する。定員1,350名となる。」
p61「浦和市立都北高校合併の経緯について」の記事あり。
p62「本太中校舎と併合し都北高校と共用したことを中心とした当時の思い出」の記事あり。
p94年譜「昭和30年2月7日 前年度からの埼高問題は、市立都北高校として埼高が再出発することで終止符がうたれ、(中略)旧本太中学校校舎を使用することになった。」
『埼玉県浦和市立高等学校創立六十周年記念資料集』(埼玉県浦和市立高等学校創立六十周年記念資料集編集委員会編 埼玉県浦和市立高等学校 1999)
p65資料38「都北高校問題(昭和30年12月)」に、「浦和市高PTAだより 第30号(昭和47年3月)」、『浦和市議会史 下巻(後編)』の記事が採録されている。
p68-69資料42「同盟休校騒ぎ」に、「埼玉新聞 昭和31年2月14日」、「同 2月15日」、「同 2月17日」の記事が採録されている。
『埼玉大百科事典 4』(埼玉新聞社 1975)
p70「中野等」の項あり。
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
p589「中野等」の項あり。
- 回答プロセス
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『埼玉大百科事典 2』(埼玉新聞社 1974)
p353「埼玉中学校」の記述を参考に、教育・浦和市・人物関係の資料を調査する。
また、浦和市史を調査したが、回答資料に既出の事項以外は記述がない。
『浦和市史 通史編3』(浦和市総務部市史編さん室編 浦和市 1990)
p750「中等学校の増設」の項に、私立埼玉中学校について多少の記述あり。
『浦和市史 通史編4』(浦和市総務部行政管理課編 浦和市 2001)
p99「新制高等学校」の項に、「同埼玉中学校などが新制高等学校として再出発することになった。」とある程度で、詳しい状況について記述は見あたらず。
- 事前調査事項
- NDC
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- 幼児.初等.中等教育 (376 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『埼玉大百科事典 2』(埼玉新聞社 1974)
- 『埼玉県教育史 5』(埼玉県教育委員会 1972)
- 『浦和市制二十年史』(浦和市 1955)
- 『創立五十周年記念誌』(記念誌編集委員会編 浦和市立高等学校 1989)
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『埼玉県浦和市立高等学校創立六十周年記念資料集』(埼玉県浦和市立高等学校創立六十周年資料集編集委員会/編 埼玉県浦和市立高等学校 1990)
- 『埼玉大百科事典 4』(埼玉新聞社 1975)
- 『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
- キーワード
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- 埼玉中学校
- 都北学院
- 都北高等学校
- 中野 等(ナカノ ヒトシ)
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000067922