レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/04/04
- 登録日時
- 2009/09/09 02:11
- 更新日時
- 2009/09/17 09:11
- 管理番号
- 埼熊-2009-013
- 質問
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解決
鋳物師集団渋江氏と川口の鋳物師との関係を知りたい。
- 回答
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以下の資料に記述があり、これらを紹介する。以下引用。
『鋳物師』(埼玉新聞社 1974)
p20 「川口鋳物の起源を記した文献は、文化文政の昔から昭和に至るまで、およそ二百年間に十一種六説ある。そのひとつが、「江戸名所図会、武蔵演路等に、暦応年中に河内国丹波南の鋳物師の移住に始まると称すれども(略)恐らくは川口に最も近き埼玉郡岩槻の渋江郷鋳物師が、材料入手に至る入間川沿岸に進出来りしものと考えられる。」
p23 決め手のない渋江説
「岩槻太田家に、斎藤、小曾川の二氏がいもじとして仕えたことから渋江いもじの川口移住説が生じたものであるが、事実であれば、江戸期の川口いもじにその姓がでてくるはずだが、見当たらない。そうした観点から考察すると、渋江いもじの川口移住説は、説得性を欠くことになる。」
『川口市史 通史編・上』(川口市 1988)
p53-454、457 「川口鋳物の発祥説には、おもなものとして4説あり、そのうちのひとつが戦国末期に、岩槻の太田氏に仕えていた渋江鋳物師が北条氏に追われ、川口に来て鋳物業を始めたという説である。 この説は、昭和28、9年ごろ新たに現れた説である。永禄七年(1564年)のころ、岩槻城の太田氏の滅亡直前に、岩槻では鋳物がほとんど作られなくなり、鋳物に必要な砂や粘土の需要、運輸に便利な川口へ移動したものであろうと推測している。しかし、永禄七年十一月、大田資正の子氏資は渋江鋳物師に対して課役を免除しているし、太田氏滅亡後、引き続いて岩槻を領した北条氏も天正二年(1574年)九月、天正十五年七月に渋江鋳物師に対して安堵状を与えている。」
- 回答プロセス
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『川口市史』など、関連する資料を調査して回答した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 金属加工.製造冶金 (566 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『鋳物師』(内田三郎 埼玉新聞社 1974)
- 『川口市史 通史編・上』(川口市 1988)
- キーワード
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- 鋳物
- 埼玉県-川口市
- 渋江(シブエ)氏
- 鋳物師
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000057735