参考資料1『福岡県百科事典 下』
p.883-884に「道首名 みちのおびとな 663~718・4・11(天智天皇2~養老2)奈良時代前期の貴族・筑後守。道君氏は大化改新以前から北陸地方に勢力をもった豪族で首名もこの一族と考えられる。700年(文武天皇4)大宝律令撰定の功により行賞され,翌年大安寺で僧尼令を解いた。712年(和銅5)遣新羅大使になり翌年帰国。ほどなく筑後守に任ぜられ死ぬまでその職にあった。記録に残る初代の筑後守で筑後国衙(久留米市枝光)で政務に励んだと思われる。その伝に,若くして律令に精通し筑後守として人々に生業を勧め,制条を作り,耕営を教え,畝には果実と野菜を植えさせ,ニワトリ・ブタの飼育法を授け,(略)ため池による灌漑で今も利をうけているとある。」とある。
参考資料2『久留米人物誌』
p.476-477に「道君首名 史書に「筑後守」と見える初めての人である。すなわち『続日本紀』に『元明天皇、和銅六年八月丁己、従五位下道君首名を筑後守となす』とある。孝元天皇の玄孫、彦屋主田心命の後裔。(略)彼が死去したのち、百姓たちは神として印鑰神社(大善寺町夜明)に祀った。以前、三潴・八女・山門地方で行われた『きんとん祭り』は、彼の遺徳を景仰して行ったお祭りといわれる。(略)武田巌雄は、明治二十五年に『道君之首名之碑』を篠山神社境内に建てた。」とあり、「筑後守介一覧」がある。p.523に「道君首名の漢詩」がある。
参考資料3『久留米市史 第1巻』
p.409-415に道君首名について、「律令の施行」「道君の出自」「道君首名の生涯」「筑後守道君首名の政治」の記載がある。
参考資料4『筑後市史 第1巻』
p.298-303に筑後守道君首名について、「道君首名の出自」「道君首名の生涯」「筑後守道君首名の政治」の記載がある。
参考資料5『郷土史物語』
p.80~83に「筑後国司道君首名の功績」がある。
参考資料6『校訂筑後志』
p.233-234に「道の君首名 續日本紀に曰く、(略)三代實録に曰く、(略)」とある。
参考資料7『久留米碑誌』
p.40に「道君首名之碑」があり、篠山町篠山神社境内に明治25年11月建立、何ら碑文はないとある。
参考資料8『郷土大善寺』
p.14に「道君首名」がある。p.220-221に「印鑰社(夜明)」「乙名塚」があり、後者には「夜明神社の境内広前の西に玉垣をした塚が即ち之で国司道君の首名の古墳とされている。即おとな塚はおびとな塚の訛りであろう。」とある。
参考資料9『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第6輯 史蹟の部』
p.57-60「道君首名墓」に、「位置及称呼」「現状」「文献」の記載がある。p.56とp.57の間に「印鑰神社」「筑後守道君首名の墓」の写真がある。