レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年06月08日
- 登録日時
- 2013/06/08 22:37
- 更新日時
- 2013/07/08 14:40
- 管理番号
- 20130608-5
- 質問
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解決
真田幸村について知りたい。
- 回答
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真田幸村(さなだゆきむら) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91/ (2013/06/08確認)
(1567―1615)
安土(あづち)桃山時代の武将。本名信繁(のぶしげ)。昌幸(まさゆき)の次男。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従(じゅ)五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任した。妻は秀吉の奉行(ぶぎょう)大谷吉継(おおたによしつぐ)の女(むすめ)。・・・
参考文献
小林計一郎著『真田幸村』(1961・人物往来社)
真田幸村 【さなだ・ゆきむら】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91 (2013/06/08確認)
さなだゆきむら【真田幸村】 国史大辞典
一五六七 - 一六一五
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれる。母は菊亭(今出川)晴季の娘。兄は信之。天正十三年(一五八五)上田城が徳川家康の軍に攻撃されたとき、父や兄とともにこれを迎撃して敗退させた。その後、父昌幸が上杉氏と結んだため一時景勝のもとに預けられたが、同十五年昌幸が豊臣秀吉へ帰属するに及び秀吉の近侍となり、大谷吉継の娘を妻とした。十八年の小田原征伐では父や兄とともに出陣、中山道の先鋒として功をあげ、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵時には名護屋まで出陣した。同三年に従五位下左衛門佐に叙任。慶長五年(一六〇〇)六月、徳川家康が上洛催促に応じない上杉景勝を討伐するため会津へ兵を動かした時、幸村は父や兄とともに従軍、七月二十七日下野国犬伏まで来たところ、上方で石田三成が兵をあげたとの情報を得た。兄の信之は、その妻が本多忠勝の娘である関係もあって徳川方に属したが、幸村は豊臣氏の旧恩に報じるため父昌幸とともに西軍に与して居城の上田城に拠り、中山道から西上する家康の子秀忠の率いる大軍を遮り、大いに戦功をあげた。・・・
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ一九 元和元年五月七日条、『左衛門佐君伝記稿』(『(新編)信濃史料叢書』一八)、藤沢直枝『真田幸村』(『信濃郷土叢書』五)、藤直幹・原田伴彦編『(歴史家のみた)講談の主人公』(『三一新書』八〇)、達子勝蔵『真田幸村と一心院』、小林計一郎『真田幸村』、山本強哉「大坂陣と真田幸村」(史学地理学同攷会『歴史と地理』四ノ二・三)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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真田幸村 / 小林計一郎著 東京 : 新人物往来社 , 1979
https://opac.clib.kindai.ac.jp/opac/opac_details.cgi?lang=0&amode=11&place=&bibid=BD00991140&key=B137069881020718&start=1&srmode=0 (2013/06/08確認)
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真田幸村 / 小林計一郎著 東京 : 新人物往来社 , 1979
- キーワード
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- 真田信繁
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000132280