レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月22日
- 登録日時
- 2013/10/22 22:36
- 更新日時
- 2013/10/22 22:42
- 管理番号
- 20131022-3
- 質問
-
解決
鍋島直正について知りたい。
- 回答
-
鍋島直正(なべしまなおまさ) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E6%AD%A3/ (2013/10/22確認)
(1814―1871)
幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。・・・
参考文献
久米邦武編『鍋島直正公伝』全7巻(1920~21・鍋島家編輯所)
鍋島直正 【なべしまなおまさ】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E6%AD%A3 (2013/10/22確認)
世界大百科事典 第2版の解説
なべしまなおまさ【鍋島直正】 1814‐71(文化11‐明治4)
幕末の佐賀藩主。号は閑叟(かんそう)。1830年(天保1)襲封。当時の佐賀藩は藩財政が窮乏し郷村の疲弊が著しかったので,藩政改革に着手し,郷村の復興と農商分離の政策を行う。なかでも均田制度と称された土地分給政策は農商分離の徹底を目ざしたもので,商人の郷村での土地保有が徹底的に排除された。また幕末期の外圧の高まりに対しては,佐賀藩が長崎警衛を担当していたこともあって長崎砲台の増築と軍事技術の改善を行い,反射炉を築き大砲製造の体制を整えた。
デジタル大辞泉の解説
なべしま‐なおまさ 〔‐なほまさ〕 【鍋島直正】
[1814~1871]幕末の佐賀藩主。号、閑叟(かんそう)。藩政を改革し、殖産興業政策を推進。西洋文明を積極的に採用、軍備近代化・反射炉建設・蘭学奨励・種痘などを行い、名君としてきこえた。明治維新後、議定・開拓使長官などを歴任。
なべしまなおまさ【鍋島直正】 国史大辞典
一八一四 - 七一
江戸時代後期の肥前佐賀藩主。はじめ斉正のち直正。閑叟と号す。文化十一年(一八一四)十二月七日佐賀藩江戸藩邸に生まれる。父は佐賀藩主鍋島斉直、母は鳥取藩主池田治道の女幸姫。天保元年(一八三〇)佐賀藩三十五万七千三十六石の藩主となる。・・・
[参考文献]
久米邦武著・中野礼四郎編『鍋島直正公伝』、中村郁一『鍋島閑叟』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139406