レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月22日
- 登録日時
- 2013/10/22 22:20
- 更新日時
- 2013/10/22 22:46
- 管理番号
- 20131022-1
- 質問
-
解決
大木喬任について知りたい。
- 回答
-
大木喬任 【おおき・たかとう】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E5%96%AC%E4%BB%BB (2013/10/22確認)
世界大百科事典 第2版
おおきたかとう【大木喬任】 1832‐99(天保3‐明治32)
明治時代の政治家。佐賀藩出身。通称幡六,のち民平。藩校弘道館に学び藩内勤王派として活動,1868年閏4月徴士として新政府に出仕,参与,外国事務局判事などを歴任する。同年9月,江藤新平とともに東京遷都を建議し,東幸に供奉を命ぜられる。同年12月,東京府知事を兼務した。70年民部大輔,71年民部卿,のち初代文部卿となり近代教育制度の基礎を築いた学制の発布に尽力し,また教部卿を兼任した。73年参議となり征韓論に反対し,大久保利通政権では参議兼司法卿として活躍,76年の萩の乱,神風連の乱後現地で処刑を指揮した。
朝日日本歴史人物事典
生年: 天保3.3.23 (1832.4.23)
没年: 明治32.9.26 (1899)
明治期の官僚,政治家。父は佐賀藩士大木知喬。嘉永3(1850)年同藩国学者枝吉神陽を中心に神陽の弟二郎(のちの副島種臣),江藤新平らと共に,佐賀城外に楠木正成・正行父子の甲冑像を安置し,義祭同盟と称した。尊王論を唱え藩政改革を提唱したが,藩主鍋島直正の親幕的態度のため改革派は主流にはなれなかった。維新後,徴士となり参与職外国事務局判事,京都府判事,軍務官判事などに任じられた。その間,江藤新平と共に東京遷都を岩倉具視輔相に建言し,明治1(1868)年9月の天皇御東幸に随行している。同年12月東京府知事。その後,4年7月文部卿に就任し,5年学制を頒布した。6年4月参議,同10月司法卿に就任したが,征韓論には反対の立場をとった。9年の萩,神風連,秋月の乱には,平定後現地に出張し裁判処理に当たっている。その後,文部卿(のち大臣),元老院議長,枢密院議長などを歴任したが,誠実,廉潔,篤学な人柄のため,大きな政治力を有することはなかった。藩閥政府の中で副島種臣と共に肥前出身者の代表格として顕職をあてがわれた。第1議会には貴族院議長候補者として名前が挙げられたが,結局山県有朋首相の懇請により伊藤博文がその職に就いている。17年華族令により伯爵。25年12月枢密院議長を辞し,麝香間祗候となる。
<参考文献>「大木喬任文書」(国立国会図書館憲政資料室)
デジタル大辞泉
おおき‐たかとう 〔おほきたかたふ〕 【大木喬任】
[1832~1899]政治家。佐賀の生まれ。江藤新平とともに東京遷都を主張、東京府知事に就任。元老院議長・枢密院議長・法相・文相を歴任。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
大木喬任 おおき-たかとう
1832-1899 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)3年3月23日生まれ。もと肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,勤王派として活躍した。維新後徴士となり,京都府判事,軍務官判事を歴任。江藤新平らとともに東京遷都を実現させる。東京府知事,法相,文相,枢密院議長などをつとめた。明治32年9月26日死去。68歳。通称は幡六,民平。
おおきたかとう【大木喬任】 国史大辞典
一八三二 - 九九
明治時代の政治家。天保三年(一八三二)三月二十三日佐賀藩士大木知喬の長男として生まれる。通称幡六のち民平と改名。嘉永年間(一八四八―五四)同藩士枝吉神陽の義祭同盟に参加、尊王論をとなえ、藩内改革を推進した。・・・
[参考文献]
内閣修史局編『百官履歴』上(『日本史籍協会叢書』)、『大木喬任履歴草稿』(国立国会図書館憲政資料室所蔵『大木喬任文書』)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 大木喬任
- 佐賀藩
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139404