レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/01/29
- 登録日時
- 2011/07/12 02:02
- 更新日時
- 2011/07/26 13:52
- 管理番号
- 埼熊-2011-014
- 質問
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未解決
豊臣秀頼の娘、奈阿姫について、次のことを知りたい。
①奈阿姫の母小石(おいわ)の方と小石の方の父成田助直はどんな人物だったのか。
②小石の方の大坂夏の陣後の消息が知りたい。
- 回答
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記述のある資料は見つけられなかった。
以下の資料を調査した。
(閨閥事典の調査)
『戦国大名閨閥事典 2』(小和田哲男編 新人物往来社 1996)
p72「豊臣秀頼関係人名事典」に〈成田氏(秀頼側室)〉の項あり。
「成田氏(秀頼側室)生没年未詳
成田助直の息女。国松丸と一女を生む。国松丸は大坂城落城後に斬首された。一方、慶長14年(1609)に生まれた女子は、鎌倉東慶寺に入れられ天秀尼と称す。」とあり。
奈阿姫の出家後の名前は〈天秀尼〉と判明する。
(人物データベースの再調査)
《WHOPLUS》〈天秀尼〉で検索したところ、人物レファレンス事典とWHOの情報がヒットする。
「豊臣秀頼の娘」とあるので質問の人物と思われるが、経歴情報の中に質問に関する記述はなし。
(女性人名事典の調査)
『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
p723〈天秀尼〉の項あり。
「慶長14年(1609)~正保2年(1645)
豊臣秀頼の遺児。幼名千代姫。母は秀頼の側室成田五兵衛(助直)の娘。
『日本女性肖像大事典』(日本図書センター 1995)
p84〈天秀尼〉の項あり。
『日本女性人名総索引 上・下』(日本人名情報研究会編著 日本図書センター 2002)
p478に〈天秀尼・天秀法泰・天秀法泰尼〉の項あり。
(人物レファレンス事典に情報のあった事典の中から調査する)
『日本史諸家系図人名辞典』(講談社 2003)
p451〈豊臣氏〉の項の中に〈天秀法泰尼〉(テンシュウ・ホウタイニ)の項あり。
「(1609-45)江戸時代前期の尼僧。慶長14年生まれ。豊臣秀頼の娘。(後略)」
また、〈豊臣氏〉の項の系図(p450)では、天秀法泰尼の母は「成田助直の娘」とされている。
『戦国人名事典』(新人物往来社 1987)
p530〈天秀尼〉の項あり。質問に関する情報としては「側室の子として誕生。」とある。
(上記の辞典の参考文献を調査する)
『系図纂要 15下 号外6』(名著出版 1999)
p456〈豊臣氏〉系図中〈秀頼〉の子の記述あり。
女(天樹院殿養之・母(空欄)・天秀泰和尚・(後略)
童(母家女於石 成田五兵衛親躬女・国松丸 大坂乱後就虜于和中散薬店 五ノ廿八所殺・(後略)
(事前調査済資料の再確認)
『駆込寺東慶寺史』(井上禅定著 春秋社 1980)
p81-83「天秀尼と澤庵」天秀尼の墓銘に「正二位右丞相秀頼公之息女也」とあり。
『忍城甲斐姫物語』(行田青年会議所広報委員会編 行田青年会議所 1995)
p36「淀殿は信頼をしていた甲斐姫に秀頼の守り役を依頼した~甲斐姫27歳、そして秀頼6歳の運命的出会い」
p38「側室渡辺吾兵衛助直の娘との間に国松丸が生まれ、甲斐姫も秀頼の~完全な側室ではなかったのですが、そこに女の子の出生をみるのであります。」
(上記調査の参考文献から)
『歴史のヒロインたち』(永井路子編 馬場あき子編 1977)
p265-292「天秀尼」
p286「豊臣秀頼と側室の間にできた子。」
p287「成田某という側室との間にできた子で(後略)。」
『人物日本の女性史 7 信仰と愛と死と』(集英社 1977)
p85-119「天秀尼」
p86参考資料あり「駿府記」「大坂御陣山口休菴咄」「大日本史料 12-20」「鎌倉市史 社寺編・史料編」「会津若松史 2」「藩翰譜」「駆入寺」「駆込寺」「鎌倉東慶寺の縁切寺法」「縁切寺松ヶ岡東慶寺」
p88「兄と同腹だとすれば、母は成田五兵衛親躬(一説には助近)の娘のお石ということになる。これにも別の説があり、『系図纂要』他の系図でも、彼女の母の欄に名前はない。」「母の出自を確実に割り出すことは不可能に近い」
兄国松の母は成田五郎兵衛親躬(一説には助近)お石。
天秀尼の家系図あり。
p89「秀頼は慶長8年、すでに千姫と結婚している。(中略)側室との間に国松と彼女が続けて生まれたということは、徳川氏側からみれば、決して歓迎されるべきものではなかったろう。また秀頼側も側室の出産として、それほど重視していなかったのか、彼女の誕生に関する史料は残っていない。」「それから数年間、彼女の生い立ちについては何も史料がない。兄の国松については『大坂御陣山口休菴咄』が、京極家で預かったという伝承を語っている。・・・国松は、後に徳川と豊臣の間が険悪になったころ、大坂へ送られた。(中略)このとき、たぶん、国松の妹も行を共にしたと思われるが(後略)」
p92「『駿府記』によると、(秀頼母子に殉じた人の中に)国松の母親らしき側室の名は見えない。(中略)どれにも成田五兵衛女という人物は出てこないので、やはり消息は不明というよりほかにない。」「しかし、秀頼の子まで生んだ側室が無事でいたとは考えられず、ここに名が出てこないのは、あるいは、これ以前にすでにこの世を去っていたのではないだろうか。」
p98「彼女は、頼秀の正室千姫の養女分という資格を得て寺入りしていうる。~家康が自分の本心をカムフラージュするゼスチャアとみられないこともないが、彼女がこれによって、社会的な身分の安定を得たことはたしか」
これ以降、尼になってからの記述が多い。
『戦国史料叢書 1-6 家康史料集』(人物往来社 1965)
「駿府記」あり。
p194 慶長20年5月8日(大坂城落城)「自害の衆」の項あり。秀頼と同時同所で自害したものの中に小石の名前なし。
p196慶長20年5月12日(大坂城落城の4日後) 「今日秀頼御息女7歳、京極若狭守より、尋ね出しこれを補うと註進。」
(参考)p197同21日「秀頼御息(国松)八歳、伏見農人橋の辺に忍び居らしめ給うのところ、すなわち捜しだし、これを虜り来る。」 同23日「未の刻、秀頼御息八歳、六條河原に於て殺され給う。」
(駆込寺東慶寺の関連資料)
『駆込寺-女人救済の尼寺-』(五十嵐富夫著 塙書房 1989)(前述の『日本女性人名辞典』の参考文献)
天秀尼については、数か所に記述あり。p19、p42-43、p45、p48-49、p241
p48「この時、秀頼には成田五兵衛助直の女の生む一男一女があったが、」(母は成田氏という説)
(成田助直についての調査)
《WHOPLUS》〈成田 & 助直〉で検索するが該当なし。
(人名事典)
『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編 新人物往来社 1987)
(寛政譜)
『寛政重修諸家譜一~四』
成田、助直、親躬 索引で調べたが記載なし。
『戦国大名家臣団事典 西国編』(山本大編 小和田哲男編 新人物往来社 1981)
『戦国大名家臣団事典 東国編』(山本大編 小和田哲男編 新人物往来社 1981)
『戦国大名系譜人名事典 東国編』(山本大編 小和田哲男編 新人物往来社 1985)
成田氏の項あるが、この系図には、直助または親躬の名はなし。
『豊臣秀吉大事典』(新人物往来社編 新人物往来社 1996)
p163「成田氏」の項あり。
『成田記』(小沼十五郎保道著 大沢俊吉訳・解説 歴史図書社 1980)
p273-274
「『成田系図』『成田分限簿』には「五兵衛助直」という人は見あたらない。一説には、甲斐女の子であったという説もある。(中略)だから甲斐女は上方にあって一族の娘をつれて来ていたのであろう。ただ名をはばかって「五兵衛助直の女」としたのではあるまいか。」とあり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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「駆込寺東慶寺史」「忍城甲斐姫物語」を調査済み。
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 天秀尼(テンシュウニ)
- 豊臣 秀頼(トヨトミ ヒデヨリ)
- 小石の方(オイワノカタ)
- 成田 助直(ナリタ スケナオ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000088397