レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/09/10
- 登録日時
- 2022/03/30 00:31
- 更新日時
- 2022/03/30 00:31
- 管理番号
- 6001055273
- 質問
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解決
大阪の仏壇の起源に関する資料はあるか。
- 回答
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大阪の仏壇の起源に関する資料は、以下のとおりです。
■『現代の仏壇・仏具工芸 信仰構造の変革と仏壇業界の展望』(鎌倉新書 1977)
「大阪仏壇」(p.131-133)に次の記述がありました。
「大阪塗仏壇の発生起源がいつごろか、確かな証がないので断定はできないが、京都、奈良に近いこともあり、本願寺の門徒衆も大阪にこの時代から在住したことを考えるならば、この頃[石山本願寺の時代]にすでに仏壇を作ることはあったとみられる。」(p.131)
「徳川時代になり、大阪は(中略)商業の都として栄えたわけだが、商人はその財力によって、仏壇も豪華なものを買い入れたことはいうまでもない。これらは京都より買い入れるよりは大阪の職人につくらせることもあったと思われる。」
■『経研資料 637号 大阪の伝統的工芸品産業』(大阪府立商工経済研究所 1982.3)
「大阪仏壇」(p.45-52)の項に、次の記述があります。
「大阪において仏壇づくりがはじまった年代について資料はない。たゞ、京都に近いことや門徒衆が大阪にもかなりいたことからみて仏壇が比較的早く大衆のなかに入っていたと推察されるわけである。そして、仏壇づくりについては、石山本願寺が建立された1500年代にはじまっていたのではないか、あるいは北御堂(慶長3年、1598年)、南御堂(同8年、1603年)といった津村坊舎の落慶にあたって、その界隈に仏壇、仏具師が住みついたのがはじまりであるといった説がある。」
「大阪で仏壇がつくられていたことを示す記録は、いずれも1600年代来であることからみて、やはり宗門改役後に本格化したとみることができよう。なお、唐木銘木仏壇の歴史も定かでないが、津村坊舎の落慶時にはじまったといわれる大阪の唐木家具指物の一部としてつくられるようになったことは間違いない。」
ここで「大阪で仏壇がつくられていたことを示す記録」として、注に次の資料が挙げられています。
「懐中・難波すゞめ」寛文11年(1671)、「諸国買物調方記」元禄5年(1692)、「国花万葉記」元禄10年(1697)、「大阪商業資料」正徳年間(1711-15)
注に挙げられていた資料のいくつかを確認しました。
■『古版大阪案内記集成 翻刻・校異・解説・索引篇(重要古典籍叢刊)』(塩村耕/編 和泉書院 1999.2)
江戸初期の大坂の地誌・名鑑である『懐中難波すゞめ』『増補難波すゞめ跡追』『難波鶴』『難波鶴跡追』(いずれも延宝7(1679)刊)、『古今芦分鶴大全』(延宝9(1681)刊)、『難波丸』(元禄9(1696)刊)の翻刻と索引が収録されています。
索引にある「仏壇屋」を確認しましたところ、次の記載が確認できました。
『懐中難波すゞめ』69丁表「仏壇屋 あづち町」(p.35)
『増補難波すゞめ跡追』79丁表「仏壇屋 あづち町」(p.85)
『難波鶴』118丁表「仏壇屋 あづち町」(p.161)
『難波鶴跡追』100ノ110丁表「仏壇屋 あづち町」(p.219)
『難波丸』2冊目・上97丁表「仏壇屋 安土町 神輿宮殿等有之」(p.455)
■『諸国買物調方記 江戸十組問屋便覧』(花咲一男/編 渡辺書店 1972)
奥付に「元禄五年」(1692)とある『諸国買物調方記』の影印が収録されています。
「諸国商人所付」の「ふ 大坂之分」の項に「仏たん屋 あづち町」とあります(p.87)。
■『国花万葉記』(菊本賀保 油屋与兵衛 元禄10(1697)年)
「巻第六ノ二」97丁表に「仏壇屋 安土町 神輿宮殿等有之」とあります。
次の資料にも大阪仏壇についての記述がありました。
■『チェンバー 355』(大阪商工会議所 1982.12)
「大阪の伝統工芸 大阪仏壇」(p.64-67)が収録されており、次の記述があります。
「大阪仏壇は石山本願寺が建立された16世紀に始まると推測されている。慶長3年(1598年)の北御堂、同8年(1603年)南御堂といった津村坊舎の落慶にあたり、船場、島之内、堀江界隈に仏壇、仏具師が住みついたのが始りであるとの説もある。」(p.64)
■『伝統工芸品銘鑑』(サンケイ新聞年鑑局 1983.3)
「大阪仏壇」(p.136-137)の「沿革」の項に、次の記述があります。
「大阪仏壇は今から1400年ほど前、百済(くだら)の威徳王によってわが国に派遣された6人の職人(仏師、造寺工=大工、細工師)にその発端をみることができる。(中略)それから15年ばかり後四天王寺(大阪市)建立にあたり同じ百済から4人の技術者を招いたともつたえられている。こうした技工・技法の渡来は仏教の浸透に拍車をかけると共に大阪を中心とした近隣地方の技術を振興させ、やがて産地形成へとつながっていく。」
「現在の型への移行は本願寺第八世・蓮如上人によって建立された本願寺別院(石山御坊・現大阪城のあたり)の完成(1491年)が境となって進行している。そして、1500年代の後半には『近国近在より参詣の老若群集し』(天満青物日記)という状況に至り、津村坊舎北御堂、南御堂といった大寺院の落慶をはじめ寺社奉行設置、宗門改め、檀家制度、宗旨人別制度など民家への仏壇安置普及を促進する環境がさらに整えられた。名工が多く生まれたのもこの頃で、仏師達による枘(ほぞ)組、戸障子付、宮殿組込み、蒔絵、彩色を施した仏壇の技術技法は今なお脈々と引き継がれている。」(p.136)
■神野茂樹/著「大阪仏壇(漆塗金仏壇) 大阪大空襲を乗り越えて」『大阪春秋 27(2)<91>』(大阪春秋社 1998.6)p.42-46
「宮岸仏具」(浪速区・大正5年創業)の三代目、宮岸隆氏の話として、次の記述があります。
「現在のような大阪仏壇の形は、天明(1781~88)の頃、農人橋お祓筋の仏師、池田屋小林弥吉が外枠を枘組に仕上げ、扉、障子を付け、宮殿を組み込んで蒔絵、彩色を施した仏壇を造ったことに始まるといわれています」(p.45)
■岩波亜紀子/文「大阪仏壇という工芸品あり、 堀江・大阪仏壇との関わり」『大阪人 58(6)』(大阪市都市工学情報センター 2004.6)p.30-32
「唐木銘木仏壇は、江戸初期、船場御堂前の仏壇調整処や付近の指物師たちが、杉、松、檜で戸棚型の仏壇を作成して始まった。次第に紫檀、黒檀、花梨材など唐木と呼ばれる輸入材にも、細工職人による独特の技法が加えられるようになり、(後略)」(p.31)
〔事例作成日:2022年3月18日〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 木工業.木製品 (583 10版)
- 参考資料
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- 現代の仏壇・仏具工芸 鎌倉新書 1977
- 経研資料 大阪府立商工経済研究所 大阪府立商工経済研究所 634-638号 (637)
- 古版大阪案内記集成 翻刻・校異・解説・索引篇 塩村/耕∥編 和泉書院 1999.2
- 諸国買物調方記 花咲/一男∥編 渡辺書店 1972
- チェンバー 大阪商工会議所 大阪商工会議所 351-355 (355)
- 伝統工芸品銘鑑 サンケイ新聞年鑑局 1983.3
- 大阪春秋 新風書房 新風書房 27(1-4)<90-93> (27(2)<91>)
- 大阪人 大阪市都市工学情報センター 58(1-6) (58(6))
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌事項調査
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000314296