レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年05月09日
- 登録日時
- 2023/06/02 09:17
- 更新日時
- 2023/06/18 21:29
- 管理番号
- 県立長野-23-030
- 質問
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解決
伊那北高等学校の校歌に阪本天山が謳われているのはなぜか。
- 回答
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伊那北高等学校の百年史である『たぐへて行かむ』長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業百年史編纂委員会編 長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業実行委員会 2021【N376.4/171c】p.16に、校歌について簡単に触れている部分で、
(-前略-)さらに、結びでは仁科五郎と高遠藩学の祖と称えられる阪本天山の名を掲げて「古へ人に
山河に たぐへて行かむ 我が友よ」と呼びかけている。(-中略-)その源をたずねると、明治維新に先
立った伊那の好学の風土等に根ざし、現実に中学校設立の運動が起こった明治14年から数えて「苦節
四〇年」ともいうべき長い「胎動期」があった。(-後略-)
とある。また、p.18に「高遠の学(阪本天山の学統と藩校進徳館)」でも、
(-前略-)「北の松代、南の高遠」と、信州学問の源流と称えられているのは、進徳館の創設に先立
つ80年に及ぶ阪本天山以降のすぐれた学統があったからである。(-中略-)この学統を受継いだ進徳
館は、期間(1860-1871)はごく短かったが、有能な教授陣を得て、抜群の教育実績をあげ、多くの
人材を輩出した。特に、「学制」後の県下各地の近代学校の教師は、進徳館出身者が非常に多かった。
(-後略-)
とあり、阪本天山をこの地域の学びの祖と位置付けていると思われる。
阪本天山については、『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989 【N283/13】p.322に項目があり、高遠藩主内藤氏に仕え、郡代在任中に風俗を正し、民業を興し、天竜川の治水に努力し、堤防工事を成功させたなどの功績があげられている。砲術師範でもあった。その後、郡代を免じられ閑居生活を送る等、浮沈はあったが、中国語を学ぶために長崎へ向かい、そこで客死している。58歳だった。
なお、阪本天山については、
・『阪本天山 信州高遠の生んだ明治維新の先覚者』 角憲和著 岳風書房 2000【N242/156】
・『阪本天山の生涯 夜明けの鐘を打ちならした儒学者・砲術者・教育者』岡田善治郎著 1995【N289/サカモ】
・『阪本天山先生評伝 付 仁科五郎信盛と流人絵島』 小松徹著・刊 1969【N289/サカモ】
などの評伝が刊行されている。
- 回答プロセス
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1 『長野県歴史人物大事典』『国史大辞典』等を調べ、概略をつかむ。高遠藩士とわかる。
2 伊那北高等学校の学校史を確認する。利用者の事前調査のとおり、校歌の項目の中では天山を謳う理由は書かれていない。しかし、草創期である旧制伊那中学の章では、天山に触れている部分があった。
また、伊那中学は旧伊那村にあったが、高遠藩領であったため藩校進徳館の影響があったと考えられる。当時の教員も藩校出身者が多くついていたとの記述もあった。
3 阪本天山の評伝を確認する。
<調査資料>
・『国史大辞典 6』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1985【210.03/コク/6】
- 事前調査事項
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伊那北高等学校の記念誌には、校歌の由来が書かれているが天山である理由は書かれていなかった。
- NDC
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- 個人伝記 (289 10版)
- 幼児.初等.中等教育 (376 10版)
- 参考資料
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長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業百年史編纂委員会 編集. たぐへて行かむ : 長野県伊那北高等学校百年史. 長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業実行委員会, 2021.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031700178-00 (【N376.4/171c】) -
赤羽篤 [ほか]編 , 赤羽, 篤, 1920-2012. 長野県歴史人物大事典. 郷土出版社, 1989.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002021352-00 , ISBN 4876631263 (【N283/13】)
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長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業百年史編纂委員会 編集. たぐへて行かむ : 長野県伊那北高等学校百年史. 長野県伊那北高等学校創立100周年記念事業実行委員会, 2021.
- キーワード
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- 阪本天山
- 伊那北高等学校
- 伊那中学校
- 校歌
- 信州学
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000334085