レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/4/23
- 登録日時
- 2013/12/31 19:28
- 更新日時
- 2014/05/29 21:33
- 管理番号
- OSPR13060076
- 質問
-
解決
幕末、会津藩の本陣・黒谷本山光明寺内での寺侍の住居について知りたい。
- 回答
-
当館所蔵資料から、次の2点をご紹介します。
1)『宝物総覧 大本山くろ谷金戒光明寺』【702.1/703N】p.340
”「黒谷金戒光明寺全図」版木 江戸時代 安政5年(1858)”の説明の文章から引用します。なお、版木の写真と一緒に、「黒谷金戒光明寺全図」(摺り物)も掲載されています。
「・・・この鳥瞰図から当山が本陣となった理由もうかがい知ることができる。
その理由とは、江戸幕府を築いた徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注ぎ、直轄地として二条城を造り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしたのである。当山に大軍が一度に入ってこられないように南門は小さく造り、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。図には描かれていないがその外には福ノ川という川がありお堀の役目をしていた。北門も立派な造りで周りは石垣で固められてる。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川あたりまで見渡せる。・・・
また、約四万坪の広大な寺域に大小五十二の宿坊があり、いざという時には多くの軍勢を駐屯させることができた。京都守護職会津藩の場合は、本陣として一千名の軍隊が駐屯した。しかhし、その為に方丈及び宿坊二十五カ寺を寄宿の為明け渡したという文書が残されている。」
2)『会津若松市史 7:会津の幕末維新:京都守護職から会津戦争』【212.6/34N/7】p.14
1)の「黒谷金戒光明寺全図」(摺り物)がもっと大きく、ページ(A4変形サイズ)の上半分に掲載されています。
なお、黒谷本山光明寺ではありませんが、長野市「善光寺」の寺侍についての文献がありましたので、目次と併せてご紹介しておきます。
3)「善光寺の寺侍」小林計一郎著(『日本歴史』73号 p.32-38 1954.6)【雑/1882】当館所蔵は「復刻版 第7巻」(p.374-380 吉川弘文館 1990.11)
一、善光寺寺侍のおこり
二、寺侍の出自
三、寺侍の職務
四、寺侍の収入
五、寺侍と領民
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 芸術史.美術史 (702 8版)
- 参考資料
-
- 『宝物総覧:大本山くろ谷金戒光明寺』(浄土宗大本山くろ谷金戒光明寺 2011.1) (340)
- 『会津若松市史 7:会津の幕末維新:京都守護職から会津戦争』(会津若松市 2003.3) (14)
- 「善光寺の寺侍」小林計一郎著(『日本歴史 復刻版7』吉川弘文館 1990.11) (374-380)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000142898