レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2023/03/09 21:16
- 更新日時
- 2023/03/21 11:49
- 管理番号
- 松中央-23-03
- 質問
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解決
昭和20年(1945年)の松山大空襲の罹災者数を知りたい。
- 回答
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調査の時期や発表された資料などによって違いがあるが、以下のような資料で知ることができる。
・『松山市戦災復興誌』(1969年/発行:松山市)p.3
”死者251名(男117名、女134名)行方不明8名、負傷者は数えきれないほどであった”、”この空襲によって市の中心部は、旧市街の城北通町の一部を残すのみで、まったく灰燼に帰し”、”主な公共建築物はほとんど罹災したが、県庁、市庁、裁判所、図書館、日本銀行、四国銀行などは幸いにも焼け残った”、”罹災者数62,200人 ”。
・『松山市史料集 第12巻』(1985年/発行:松山市)p.24
”昭和20年中の罹災戸数13,688戸、罹災者数67,118人(内死亡者385人)”
・『「松山城」は残った~松山大空襲の記録』(1989年/発行:愛媛ジャーナル)p.105~122
り災人口62,200人、り災家屋14,300戸、死傷者1,141名うち死者251名行方不明8名。
”松山市の中心部は、7月26日の夜の焼夷攻撃で松山を中心にドーナツ状にすっかり焼けてしまった”とあり、焼け残った所は、爆撃の対象外とされたと思われる松山城、松山陸軍病院などや、石造建造物である県庁、裁判所、久松家別邸(現 萬翠荘)など、及び市役所、図書館、日本銀行などの堅牢な建造物であった、ということが書かれている。
(その他参考になる資料)
・『全国戦災史実調査報告書 昭和52,53』(1979年/発行:日本戦災遺族会)p.30~31、p.144~145
・『愛媛県史(第6巻)近代 下』(1988年/発行:愛媛県)p.931~933
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 衛生工学.都市工学 (518)
- 日本史 (210)
- 参考資料
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戦災復興誌編集部会 編集 , 松山市. 松山市戦災復興誌. 松山市役所, 1969.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I075419715-00 -
松山市史料集編集委員会 編 , 松山市. 松山市史料集 第12巻 (近・現代編 4). 松山市, 1985.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001762659-00 -
松友正隆 著 , 松友, 正隆, 1935-. 「松山城」は残った : 松山大空襲の記録. 愛媛ジャーナル, 1989.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002023703-00 -
全国戦災史実調査報告書 昭和52,53年度. 内閣総理大臣官房管理室, 1979.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I036355103-00 -
愛媛県史編さん委員会 編 , 愛媛県. 愛媛県史 近代 下. 愛媛県, 1988.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001921946-00
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戦災復興誌編集部会 編集 , 松山市. 松山市戦災復興誌. 松山市役所, 1969.
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000330085