レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008/09/28
- 登録日時
- 2009/03/18 02:13
- 更新日時
- 2013/08/01 09:27
- 管理番号
- 埼熊-2008-091
- 質問
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解決
岩槻城を造ったのは太田道灌と言われているが、新説として成田正等と聞いた。真実はどちらか。
- 回答
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太田資清・資長(道灌)父子によるものとする説(A説)、岩付正等(成田顕泰の父資員か)によるものとする説(B説)の両説がある。A説・B説・両説併記の資料を紹介する。(備考欄に追記あり。)
【A説とする資料】
①『太田道真と道灌』(小泉功 2007)、②『むさしの「城跡」ウォーキング』(平野勝 2007)、③『関東の城址を歩く』(西野博道 2001)
【B説とする資料】
④黒田基樹「成田氏の岩付築城について(『岩槻史林 34号』 2008)、⑤『岩槻の歴史と文化を知る町づくり』(2006)、⑥『岩槻城と城下町』(2005)、⑦『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹 2004)、⑧『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』(道野昭壽 1998)
【両説併記の資料】
⑨『埼玉の城址30選』(西野博道 2005)、⑩『続・埼玉の城址30選』(2008)、⑪『戦国の城』(2005)、⑫長塚孝「古河公方足利氏と禅宗寺院」(『葦のみち 三郷市史研究 第2号』 1990)
- 回答プロセス
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A説:太田資清・資長父子によるものとする資料
①『太田道真と道灌』では「長禄元年(1457)に道真・道灌父子が築城したといわれている。」とあり。
②『むさしの「城跡」ウォーキング』では「扇谷上杉氏の家臣で、築城の名手といわれた太田道真・道灌父子の構築と伝える。」とあり。
③『関東の城址を歩く』では「長禄元年(1457)に太田道灌とその父(道真)によって元荒川のほとりに築かれた平城(浮城)である。」とあるが、著者は近年の資料では両論併記している。
B説:顕泰の父岩付正等(成田資員か)によるものとする資料
④「成田氏の岩付築城について-第218回研究会・創立40周年記念オープン講演会」(『岩槻史林 34号』)では「(築城は)むしろ古河公方方の忍城城主成田顕泰の父、自耕斎正等による築城を窺わせる「自耕斎詩軸并序」等の重要史料が所在することが明らかとされ、通説の位置を占めつつある。」とあり。
⑤『岩槻の歴史と文化を知る町づくり』の年表に「成田氏の岩付正等が古河公方成氏の命令で岩付城を築いた。」とあり。
⑥『岩槻城と城下町 いわつき郷土文庫 第3集』 これまで「鎌倉大草紙」を根拠とし、扇谷上杉持朝が家宰の太田道真・道灌父子に命じて築城させた城郭群の1つに数えていたが、「鎌倉大草紙」以外の同年代の史料である「松陰私語」「太田道灌状」に岩槻城の名前が確認されないことや、忍城主成田顕泰の父自耕斎正等による築城を窺わせる重要史料が所存することが明らかにされたことの記述あり。岩槻城築城は文明年間と予想されていること、古河公方方の成田氏による築城の理由について考察あり。「自耕斎詩軸并序」の写真あり。ただし校閲者は大村氏。
⑦『扇谷上杉氏と太田道灌』では「築城者も扇谷上杉氏や太田氏ではなく、古河公方足利氏に従っていた武蔵忍城(行田市)を本拠とする成田氏下総守(法名正等)であった。」とあり。
⑧『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』岩付城の築城者は、道灌であるとする通説に対し、新史実が発見され、岩付正等(成田資員、顕泰の父)であるとする「文明明応年間 関東禅林詩文等抄録」を紹介している。岩付正等成田資員は、長尾景仲に属し、関東管領山内上杉房顕の命によって岩付城を築城したと考える。この図書のあとがきに大村氏への謝辞あり。
両説併記の資料
⑨『埼玉の城址30選』「築城者は太田道真・道灌父子、最近では成田氏とも言われ定かでない。」とあり。
⑩『続・埼玉の城址30選』「岩槻城は、長禄元年(1457)太田道真・道灌父子が初めて築城したといわれているが、近年では、忍城主成田親泰の祖父成田資員(自耕斎正等)とする説も有力である。」とあり。
⑪『戦国の城』では「従来、岩槻城は長禄元年(1457)に扇谷上杉氏の家宰太田氏により築城されたと考えられていた、近年では古河公方や山内上杉氏に連なる勢力による築城とする説が通説化しつつある。」とあり。
⑫長塚孝「古河公方足利氏と禅宗寺院」(『葦のみち 三郷市史研究 第2号』 1990)p86の註(18)「『自耕斎詩軸并序』には、岩付城の築城にあたったのは顕泰の父自耕斎であるということが記されている。岩付といえば、太田氏が城主であったといわれており、成田氏に関する史料等についてはいままで知られていなかった。したがってこの点については充分検討しなければならない。」 *⑦『扇谷上杉氏と太田道灌』の典拠になったもの。
- 事前調査事項
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「戦国時代のさいたま 城と館からさぐる」(さいたま市立博物館 2005)の大村進氏の説では築城について大別し2つの説があがっている。
A説:「鎌倉大草紙」等の記述による太田資清・資長父子によるもの。
B説:「自耕斎詩軸并序」によって古河公方の武将であった顕泰の父岩付正等(成田資員か)とするもの。最近は、B説が有力としている。
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『太田道真と道灌』(小泉功 幹書房 2007)
- 『むさしの「城跡」ウォーキング』(平野勝 東京新聞出版局 2007)
- 『関東の城址を歩く』(西野博道 さきたま出版会 2001)
- 『岩槻史林 34号』(岩槻地方史研究会 2008)
- 『岩槻の歴史と文化を知る町づくり』(岩槻地方史研究会 2006)
- 『岩槻城と城下町』(岩槻市教育委員会 2005)
- 『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹 岩田書院 2004)
- 『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』(道野昭壽 1998)
- 『埼玉の城址30選』(西野博道 埼玉新聞社 2005)
- 『続・埼玉の城址30選』(埼玉新聞社 2008)
- 『戦国の城』(高志書院 2005)
- 『葦のみち 三郷市史研究 第2号』(三郷市 1990)
- キーワード
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- 岩槻区-さいたま市-埼玉県-歴史
- 岩槻城-城郭-歴史
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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追記(2012/10/12):
後日出版された『岩槻城は誰が築いたか』(小宮勝男著 さきたま出版会 2012)では、B説の根幹となった「岩槻左衞門丞顕泰」を成田顕泰とした点を否定し、その論拠とされた「自耕斉詩軸並序」をも読み解きながら通説とされていたA説を裏付けている。
典拠としているのは、『鎌倉大草紙』p10(該当部分の引用あり)。
他に『岩槻市史年表』(昭和54年改訂版)の出典には『鎌倉大日記』『北条五代記』『永享記』『河越記』などが列挙されていると紹介している。
『自耕斉詩軸並序』p24部分図版あり。(掲載は『信濃史料 10』p39-40)
『梅花無尽蔵注釈 1』(市木武雄著 続群書類従完成会 1993)太田道灌が白羽扇を愛用していたという万里集九(バンリ シュウク)の漢詩を紹介し、根拠としている。
追記(2013/7/31)
回答後、調査し該当した資料を以下に追加する。
【A説:太田資清・資長(道灌)父子によるものとする資料】
(図書)
『新岩槻史譚』(田中午比古著 大和学芸図書 1982)
『湯山学中世史論集 1 関東上杉氏の研究』(湯山学著 岩田書院 2009)
『史籍集覧 第6冊 武家部 年代記編』(近藤瓶城原編 角田文衛、五来重編 臨川書店 1967)
『岩槻城は誰が築いたか 太田灌のブログ』(太田灌著 2010)
(雑誌)
『岩槻史林 創刊号』(岩槻地方史研究会 1971)
『岩槻史林 18』(岩槻地方史研究会 1987)
【B説:岩付正等(成田顕泰の父資員か)によるものとする資料】
(図書)
『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』(道野昭壽 1998)
『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹著 岩田書院 2001)
『宮代町と岩槻城 平成20年度特別展』(宮代町郷土資料館 2008)
『〈図説〉太田道灌 江戸東京を切り開いた悲劇の名将』(黒田基樹著 戒光祥出版 2009)
【両説併記の資料】
(図書)
『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館 2005)
『あなたの知らない埼玉県の歴史 歴史新書』(山本博文監修 洋泉社 2012)
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000052608