レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/01/29
- 登録日時
- 2011/07/12 02:01
- 更新日時
- 2011/07/26 13:56
- 管理番号
- 埼熊-2011-015
- 質問
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解決
豊臣秀頼の娘、奈阿姫について次のことを知りたい。
①奈阿姫が千姫の養女になったいきさつと理由。
②奈阿姫の母親について、側室小石の方とする説以外にどのような説があるか。
- 回答
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①については、大阪城落城後千姫の哀訴により養女となったことがわかった。いきさつと理由について記述のある下記の資料を紹介した。
②成田五兵衛助直の娘、成田五兵衛親躬(一説には助近)の娘、渡辺五兵衛の娘、甲斐姫という様々な説がある。下記の資料を紹介した。
『戦国大名閨閥事典 2』(小和田哲男編 新人物往来社 1996)
p72「豊臣秀頼関係人名事典」に〈成田氏(秀頼側室)〉の項あり。
「成田氏(秀頼側室)生没年未詳
成田助直の息女。国松丸と一女を生む。国松丸は大坂城落城後に斬首された。一方、慶長14年(1609)に生まれた女子は、鎌倉東慶寺に入れられ天秀尼と称す。」とあり。
この〈天秀尼〉が質問の「奈阿姫」のことと思われる。
『日本史諸家系図人名辞典』(講談社 2003)
p451〈豊臣氏〉の項の中に〈天秀法泰尼〉(てんしゅう・ほうたいに)の項あり。
「(1609-45)江戸時代前期の尼僧。慶長14年生まれ。豊臣秀頼の娘。慶長20年の大坂城落城後、千姫の養女となる。鎌倉の臨済宗東慶寺にはいり、のち住持。講堂を再建し、男子禁制・縁切寺法の特権をまもった。正保2年2月7日死去。37歳。
また、〈豊臣氏〉の項の系図(p450)では、天秀法泰尼の母は「成田助直の娘」とされている。
『歴史のヒロインたち』(永井路子編 馬場あき子編 1977)
p265-292「天秀尼」
p286「豊臣秀頼と側室の間にできた子。~大坂落城の翌年、秀頼の正室・千姫、徳川家康の庇護を受けて、鎌倉・東慶寺に入って尼となる。そのとき7歳か8歳だが「不幸な女のために力になりたい」とみずから望んで東慶寺に行ったともいわれる。」
p287「成田某という側室との間にできた子で(中略)娘は助けられ、鎌倉・東慶寺に入って、天秀尼と名乗り、のちに東慶寺二十世住持(住職)になっている。」「万事、千姫がめんどうをみたようでもありますね。」
『人物日本の女性史 7 信仰と愛と死と』(集英社 1977)
p85-119「天秀尼」
p88「兄と同腹だとすれば、母は成田五兵衛親躬(一説には助近)の娘のお石ということになる。これにも別の説があるし、『系図纂要』ほかの系図でも、彼女の母の欄に名前はない。」「母の出自を確実に割り出すことは不可能に近い」
兄国松の母は成田五郎兵衛親躬(一説には助近)お石。
天秀尼の家系図あり。
p89「秀頼は慶長8年、すでに千姫と結婚している。・・・側室との間に国松と彼女が続けて生まれたということは、徳川氏側からみれば、決して歓迎されるべきものではなかったろう。また秀頼側も側室の出産として、それほど重視していなかったのか、彼女の誕生に関する史料は残っていない。」
p98「彼女は、頼秀の正室千姫の養女分という資格を得て寺入りしていうる。(中略)家康が自分の本心をカムフラージュするゼスチャアとみられないこともないが、彼女がこれによって、社会的な身分の安定を得たことはたしか」
『大阪人物辞典』(三善貞司編 清文堂出版 2000)
p763-764「天秀尼」の項あり。
「国松は殺されたが天秀は助かる。女だからだけではない。落城寸前に淀殿・秀頼母子の助命嘆願のため、徳川陣に戻った千姫の哀訴のせいである。千姫は自分が秀頼の許に嫁がされたときの年齢と同じ少女を、見捨てることができなかった。家康は孫娘の願いを容れ、千姫の養女にし、鎌倉の東慶寺に尼僧として入山させることを条件に助けてやる。」とあり。
『潮 2005年11月号』
p212-217「駆け込み寺で悲願実現」童門冬ニ著
p212「秀頼の家臣成田助直の娘が側室として仕えて生んだ。」
p213「孤児となった天秀尼の境遇に哀れさをおぼえた千姫は、天秀尼を自分の養女にした。」
『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
p723〈天秀尼〉の項あり。「慶長14年(1609)~正保2年(1645)
豊臣秀頼の遺児。幼名千代姫。母は秀頼の側室成田五兵衛(助直)の娘。」
質問に関しては「大坂城落城の時は七歳。天秀尼の養母は千姫であり、徳川家康は千姫の願いを聞き、生命を助け鎌倉東慶寺に入れた。」「・・・千姫の援助を得て客殿、方丈などを再建した。」等々千姫との関係については記述があるが、養女になったいきさつはなし。母のことも上記のことのみ。
p285に〈甲斐姫〉の項あり。秀吉の側室とある。
『戦国人名事典』(新人物往来社 1987)
p530〈天秀尼〉の項あり。質問に関する情報としては「側室の子として誕生。」「大坂城落城後、徳川家康の意向により秀頼の正室であった千姫の養女として鎌倉東慶寺に入寺。天秀法泰と称す。」とある。
『駆込寺-女人救済の尼寺-』(五十嵐富夫著 塙書房 1989)
天秀尼については、数か所に記述あり。p19、p42-43、p45、p48-49、p241
p48「この時、秀頼には成田五兵衛助直の女の生む一男一女があったが、」(母は成田氏という説)
p48「東慶寺の由緒書には「大坂一乱の後、天樹院様の養女になされ、権現様上意に依り当山に入り薙髪し瓊山尼の弟子となる。時八歳」と記されている。」(千姫の養女には大坂城落城の後になっているという記述)
『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市編 吉川弘文館 1979)
p346-347(天秀尼について)「元和元年大坂城落城によって秀頼は死に、七歳の幼女は捕えられた。『由緒書』によれば「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」とある。」とあり。
(千姫の養女には大坂城落城の後になっているという史料)
『縁切寺東慶寺史料』(高木侃編 平凡社 1997)
p73-76「20 文化五年九月 松岡東慶寺考」に天秀尼について詳述されている。
p75「第廿世天秀泰和尚」「大坂一乱之後に秀頼公公達ハ誅せられたれ共、息女をば天寿院殿(中略)御養君となし給ふ(後略)」とあり。大坂城落城後に養女になったという記述。この部分の典拠史料は「大坂記」とあり。
『千姫 物語と史蹟をたずねて』(松本幸子著 成美堂出版 1982)
p54-55「「お絲殿が亡うなったそうにござりまする」~「産後の肥立ちがようなかったそうにございまする」」
p182-187「天秀尼」
「東慶寺といえば、豊臣家の遺児に相応しい格式の尼寺である。(中略)千姫は、奈阿姫を秀頼の名もない側室の産んだ娘としてではなく、徳川将軍の娘、千姫の養女として東慶寺に入れたのであった。」
『月刊歴史と旅 1998年5月増刊号』
p282-287「徳川千姫」東野りえ著
p287「姫はこの側室のことでは辛い思いをしたのだが、けんめいに女の子の命乞いをして自分の養女にした。」とあり。
『月刊歴史と旅 1996年5月臨時増刊号』
p74-75「国松丸」淡野史良著
p74「生母は秀頼の臣、渡辺五兵衛(一説には成田五兵衛)の娘である。彼女は翌年にも女児、のちの天秀尼を生んだ。」とあり。
p76-77「天秀尼」の項はあるが、質問に関する記述なし。
- 回答プロセス
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『戦国大名閨閥事典 2』により豊臣秀頼の娘が天秀尼という鎌倉東慶寺の尼僧となったことがわかり、以後〈天秀尼〉をキーワードに調査した。
人名事典、東慶寺関連資料、天秀尼関連資料、鎌倉市史等を調査し、回答の情報を得た。
- 事前調査事項
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質問者は「駆込寺東慶寺史」「忍城甲斐姫物語」を調査済み。
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『戦国大名閨閥事典 2』(小和田哲男編 新人物往来社 1996)
- 『日本史諸家系図人名辞典』(講談社 2003)
- 『歴史のヒロインたち』(永井路子編 馬場あき子編 1977)
- 『人物日本の女性史 7 信仰と愛と死と』(集英社 1977)
- 『大阪人物辞典』(三善貞司編 清文堂出版 2000)
- 『潮 2005年11月号』
- 『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
- 『戦国人名事典』(新人物往来社 1987)
- 『駆込寺-女人救済の尼寺-』(五十嵐富夫著 塙書房 1989)
- 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市編 吉川弘文館 1979)
- 『縁切寺東慶寺史料』(高木侃編 平凡社 1997)
- 『千姫 物語と史蹟をたずねて』(松本幸子著 成美堂出版 1982)
- 『月刊歴史と旅 1998年5月増刊号』
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『月刊歴史と旅 1996年5月臨時増刊号』
- キーワード
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- 天秀尼(テンシュウニ)
- 豊臣 秀頼(トヨトミ ヒデヨリ)
- 千姫(センヒメ)
- 東慶寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000088348