レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年12月17日
- 登録日時
- 2012/05/22 17:40
- 更新日時
- 2012/12/26 11:04
- 管理番号
- 新県図-01209
- 質問
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解決
新潟県における稲作の始まりについて、ごく簡単な内容でよいので知りたい。
- 回答
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『新潟県のあゆみ』(新潟県/編・発行 1990 当館請求記号:214.1/N72 当館ホームページ「越後・佐渡デジタルライブラリー」にあり)p20には、以下の記述があります。
弥生中期になると、県内にも稲作の技術が入ってくる。県内では、水田のあとは柏崎市戸口遺跡から発見されているにすぎないが、柏崎市下谷地遺跡や金井町千種遺跡によって当時の稲作農耕の一端をうかがうことができる下谷地遺跡は弥生中期後半の集落跡で、海岸から直線距離で四キロメートル離れた標高約五メートルの微高地にあり、周辺の低湿地で水田耕作が行われたものと思われる。
また、『新潟県の歴史』(田中圭一/ほか著 山川出版社 1998 214.1/Ta84)p27~29では、稲作受入れの状況をもう少し詳しく述べています。
稲を栽培し、米を食料とするには多くの知識と技術と用具が必要であった。新潟県内における稲作は、そうした知識や技術をたずさえて北陸地方の西部から移住してきた人びとによって開始され、普及していったと思われる。しかし、柏崎市の下谷地遺跡や佐渡郡畑野町の下畑玉作遺跡から出土した炭化米は粒の大きさがそろっておらず、新潟県の風土に適合する稲の品種改良や栽培技術はまだ未熟な段階にあった。それにもかかわらず、弥生時代の中期に稲作が普及したのは、櫛描文土器や玉作や織布などとともに稲作や稲作に伴う祭祀が弥生社会を構成する不可欠な文化としてうけいれられたからであろう。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 食用作物 (616 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 稲作の歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000106419