レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/01/28
- 登録日時
- 2022/02/10 00:30
- 更新日時
- 2022/02/10 00:30
- 管理番号
- 6001053871
- 質問
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解決
緒方洪庵の命日である6月10日と、11月10日に、適塾の門人たちが緒方家に集まっていたらしいが、そのことについて記載された資料はあるか。
- 回答
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次のような資料が見つかりました。
■『福沢諭吉伝 第1巻』(石河幹明/著 岩波書店 1932)
「第五編 緒方洪庵と先生 第三 旧師の恩義」(p.145-156)に次の記載があります。
・「明治八年六月十日、洪庵の十三回忌に際し、嗣子惟準が在京の旧門下生を自邸に招いだ其席上、先生は起つて一場の演説を試み、毎年六月十日(洪庵の命日)と十一月十日の両日を恩師の記念日と定め、緒方家に集会して故師の霊を拝し且つ同窓の交誼を温めんことを提議した。」(p.145)
緒方洪庵の命日である6月10日とは別に、11月10日にも集まる理由については次の記載があります。
・坪井信良による手記「先師洪庵緒方先生祭辰招集記」(「昭和二年九月発行『緒方病院医報』第四號」)が掲載されています。(p.145-149)
「時に福澤諭吉起て衆に[言偏に念]て曰、(中略)毎年二回を以て期と為す、則ち本日(六月十日)及び十一月十日なり(甲会六月なれば乙会宜しく十二月と為すべきに似たり、然れども歳末人事多忙の時なれば縮めて十一月と成すべきなり)、以上告る所は之を諸君に議するのみ、肯て之を要するにあらず、諸君其れ之を選べ。此時席上の衆客皆手を揚て同意を表す。(中略)会席は即ち此館に於てす(駿河台南甲賀町十七番地)、毎会期に先たつ数日、必ず出席するか或は事故ありて欠席するかを館主に報告す可し、之を会則とすと。」(p.146-147)
・「先生の提議によつて成立した年二度の会合は其後暫く続けられたが、先生は単にこれらの会合に出席を欠かさゞるのみならず、洪庵の死後絶えず緒方家に出入して洪庵の未亡人を母の如くに敬慕し、老夫人も亦先生を子のやうに愛してゐた。」(p.149)
■『福沢全集 続第7巻 諸文集』([福沢諭吉/著] 岩波書店 1934)
「故緒方洪庵先生懐旧集の文」(p.244-245)
※国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。(140コマ目)(2022/1/28現在)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1078138/140
「毎年六月十日十一月十日は故緒方洪庵先生の懐旧集とて在東京の旧門人駿河台の緒方家に集会するの例あり 去る十日は其定日にて福澤諭吉君も出席せり其席にて同君の認めたる懐旧集の文を左に記す」とあり、懐旧集の文が掲載されています。最後に「旧適塾の食客生 福澤諭吉記」とあります。
これは、『家庭叢談』の「明治九年十月十三日第二十一號」に掲載されたものとあります。
○『家庭叢談』<21>(慶応義塾出版社 1876.11)12丁オ-13丁オ
(国立国会図書館デジタル化資料送信サービスの図書館送信参加館で利用可能(2022/1/28現在))
※『家庭叢談』のタイトルが記載された丁に「明治九年十一月十三日 第廿一號」とあります。
■『医学史話:杉田玄白から福沢諭吉』(藤野恒三郎/著 菜根出版 1984.1)
「維新の内乱を境に」(p.381-401)に「洪庵の十三回忌」(p.385-389)の項があります。
「明治八年(一八七五)六月十日、東京駿河台、嗣子・緒方惟準邸宅に旧門人多数が集まり、健在な八重夫人を囲んで洪庵十三回忌が盛大にとり行われた。現在の明治大学敷地の一部である。」(p.385)とあり、坪井信良氏の「先師洪庵緒方先生祭辰招集記」が紹介されています。
また「『集会の状を映写せしめ以て此事を後日に遺さん』として、『庭上に出で鏡前に向て郡列す』とあって、明らかに写真機の前に並んで記念撮影が行われたのであるが、この写真は今日どこにも見出されていない。しかし翌年の同月同日、同じ緒方邸の庭に於て、洪庵の肖像画を中心に八重夫人以下総勢三十一名が並んだ記念写真はのこっている。その時六歳の少年であった銈次郎氏(惟準の嗣子)は後年この日の思い出の記を綴っている。」(p.389)
とあります。
〇緖方銈次郞「東京に在りし適々齋塾」『医譚』<17>p.45-66
「六、東京適塾址及その写真」(p.63-66)に次の記載があります。
・「此写真は伊藤愼藏氏の令孫伊藤小太郎氏よりわが家に寄贈せられたものであつて、頗る珍重なる記念品と称すべきである。即ち明治九年六月十日緒方洪庵第十四回忌辰を期して洪庵に師事せし旧塾生のうち東京在住の一部の人々が、当時滞京せし八重子刀自を中心として緒方邸に相集まり、第二回の懐旧会を催し恩師の法事に兼ねて懇談親睦を重ねたる時に撮影せし記念写真なのである。」(p.63)
・「猶ほ此日の来会者中撮影に加はらずして所用のため帰宅せられしもの数名あり。其うちに福澤諭吉、船曵清修、中定勝の三名ありしと聞く。前述せる如く此写真は懐旧会第二回の記念撮影にして、当時の記録は現存せず。しかるに同会第一回の記録は偶ま坪井信良氏の霊筆によりて会合の模様を委細に書き綴られたものが我が家に残されてある。今其大要を左に抜録する。」(p.65)として、その内容が部分的に引用されています。
・「先年余が著したる自叙伝『七十年の生涯を顧みて』の中に、以上の坪井氏の記録を参考として、左の懐旧記を載せたのであつた。」として、『七十年の生涯を顧みて』の一部が引用されています。引用中に「福澤先生の発起」による「懐旧会即ち在京適塾同窓会」に関する記述があります。(p.66)
・「懐旧会は爾後緒方家の大阪に移りてよりも、引続き毎年一回上野八百松樓に於て、中定勝、緒方三郎両氏を世話役として会合せられ毎回多数の出席者を見た。そして明治時代の中頃まで継続したが、時を歴て物故者の増すにつれ自然消滅の姿となつたのである。」(p.66)
※一部引用されている『七十年の生涯を顧みて』は、当館には所蔵がなく、確認できていません。
■『蘭学のころ』(緒方富雄/著 弘文社 1944)
「その二 緒方洪庵のこと 緒方洪庵の死」(p.480-504)の「八」に「洪庵の長惟準は明治八年頃には既に一家をなして東京駿河台に門を開いてゐた。(中略)惟準は明治八年六月十日、洪庵の十三回忌を期して、昔の門人達を招いた。」(p.497)として、坪井信良氏の「先師洪庵緒方先生祭辰招集記」(「伊藤小太郎氏」蔵)が掲載されており(p.498-503)、「九」に「当日成立した年二度の会合は暫らく続けてゐたらしい。この会に関する記事は後日にまとめて見たいと思つてゐる。」とあります。(p.503)
「後日にまとめて見たい」とある記事については、見つけられませんでした。
〔事例作成日:2022年1月28日〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 通過儀礼.冠婚葬祭 (385 10版)
- 参考資料
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- 福沢諭吉伝 第1巻 石河/幹明∥著 岩波書店 1932 (145-149)
- 福沢全集 続第7巻 [福沢/諭吉∥著] 岩波書店 1934 (244-245)
- 医学史話 藤野/恒三郎∥著 菜根出版 1984.1 (385-389)
- 医譚 杏林温故会 15-17
- 蘭学のころ 緒方/富雄∥著 弘文社 1944 (480-504)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000311979