レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年07月19日
- 登録日時
- 2022/02/03 15:34
- 更新日時
- 2022/02/22 08:41
- 管理番号
- 中央-1-0021521
- 質問
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解決
焼米坂(さいたま市南区)途中の南浦和小学校脇にある「忠魂碑」は太平洋戦争時の史跡か。南浦和小学校と関わりはあるのか。
- 回答
-
下記資料を紹介した。
(1)『浦和市史 第4巻 近代史料編 3』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1982年
南浦和小学校の前身である六辻小学校の学校日誌が収録されている。下記ページに忠魂碑に関する記述あり。
p365~738 六辻小学校『日誌』
p447 大正九年度日誌 五月一日(土曜 雨)
忠魂碑除幕式を校庭にて挙行す
p708 昭和二十二年度日誌 四月三日(晴 十八・五度)
忠魂碑ノ除去
大正九年の除幕から昭和二十二年の除去までの間に、「忠魂碑前ニ集合戦死者追弔ヲナス」「全校朝礼の折 忠魂碑に礼拝をなす」などの記述が多数登場し、忠魂碑前に度々集合していた様子が見受けられる。
(2)『開校百二十年記念誌』浦和市立南浦和小学校 1995年
「南浦和小学校の沿革」(p14~)の年表に下記の記述あり。
p16 昭和二二 忠魂碑をうめる
“うめる”の具体的な状況ははっきりしないが、昭和22年に忠魂碑に関する動きがあったこと、それが(1)の『浦和市史』の記述と一致していることが分かる。
p110~111 「三 戦争の頃」
p110下に忠魂碑の写真があり、「南小敷地内にある忠魂碑(歩道橋のわき)」のキャプションが付いている。
(3)『忠魂碑の研究』大原康男/著 暁書房 1984年
p184~197 「忠魂碑等の撤去・移転・改造」
p184(昭和21年)11月27日に出された警保局長通牒「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」の全文が掲載されており、「一 学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する」と書かれている。
全国の撤去の状況については、p190以降に説明があり、「撤去された上で破壊されたり、地中に穴を掘って埋められたケース」「目立たない私有地に移転して維持をはかったケース」「碑文や碑銘の模様替えをして維持をはかったケース」があげられている。
南浦和小学校における昭和22年の忠魂碑の除去(“うめる”)についても、この通牒の影響があったものと考えられる。
現存の忠魂碑について、元々あった忠魂碑を移動したものなのか、再建されたものなのかは分からなかったが、『浦和市史』や『開校百二十年記念誌』を見る限り、南浦和小学校と何らかの関わりがあったと推測される。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 忠魂碑
- 慰霊碑
- 記念碑
- さいたま市南区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000311768