レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/04/10
- 登録日時
- 2015/07/16 00:30
- 更新日時
- 2015/07/16 00:30
- 管理番号
- 6001009019
- 質問
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未解決
大日本史料 第12編 50に収録されているという「大津文書」に記載されている「小須郷の合戦」についての詳細を教えてください。大日本史料 第12編は後水之尾天皇の時代のようでこの中に関ヶ原合戦の事を記載されているのでしょうか?山形県史にも記載があるらしいです。
- 回答
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関ヶ原の合戦の前哨戦として知られる、伊達と上杉の白石の合戦と関係があるようです。文書の中には後述のように関ヶ原の合戦について記されていますが、「小須郷の合戦」の詳細を記した資料は見つかりませんでした。
『大日本史料 第十二編之五十』に記載されている「大津文書」は、元和8年11月の項で
「出羽庄内鶴岡城主酒井忠勝、最上氏ノ牢人等ニ、戦功覚書ヲ呈出セシム、尋デ、五十余名を召抱フ」
という綱文(見出し)中に収められています。
9頁に「大津文書」があって、以下のように記されています。
「 覚 大津藤右衛門
一先年治部少輔(石田三成)弓矢之時、(上杉)景勝家中にて足軽五拾人預、相馬境河俣ニ(陸奥安達郡)居候處、子ノ(慶長五年)六月廿五日、伊達大石(陸奥伊達郡)にて蜂起之時分、正宗(伊達正宗)より掛田之城江(陸奥伊達郡)加勢入申候砌、馬を入申候處 ニ、拙者・馬共ニ手負申候事、
一同年八月廿四日ニ、白石境小須郷(越河、陸奥刈田郡)にて高名仕候事、
右證跡人、至今景勝家中ニ罷有候舟橋名兵衛・本田次右衛門尉與申仁存候、此方ニ居候旁も被存候、其後最上出羽守(義光)代ニ當家中へ参候、知行者、
貮百五拾石 但、四つ物成、出羽守判形有、
元八 本国越中
霜月二日 大津藤右衛門久親(花押)」
つまり、元和8(1622)年になって、酒井忠勝が大津藤右衛門に提出させた「戦功覚書」の中に小須郷の合戦が記載されていることになります。
この文書からは小須郷の合戦は慶長5(1600)年8月24日にあったことになります。
また、小須郷の部分に「越河、陸奥刈田郡」と注記されていますので、現在の宮城県白石市越河の地名辞典を確認しました。
・『角川日本地名大辞典4 宮城県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1979.12)
243-244頁に「越河」の項目があり、244頁に「慶長5年伊達正宗は上杉領であった白石城を攻めてこれを落とし、つづいて伊達郡に進出したが成功しなかった。「正宗福島表に敗軍して引払いければ本庄繁長その後をしたい小須五まで打ち出し、少々焼働して引入りけり」(北越軍記)とあることから、当時は越河は伊達と上杉両軍の前線接触地域であった」とあります。
・『宮城県の地名(日本歴史地名大系4)』(平凡社 1987.7)
117頁に「越河村」の項目があり、「慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦として伊達正宗は上杉景勝領の白石城を攻略しさらに福島方面に攻めた」とあり、前出の「北越軍記」が引用されています。
ちなみに『北越軍記』は「新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー」で閲覧できます。
・新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー
http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/DigitalShosai(2015/04/10現在)
なお、この「北越軍記」の記述が、「大津文書」にある大津藤右衛門が「小須郷」で「高名」を挙げた戦いと同じものかは確認できません。
白石の合戦に関する資料は、
・『宮城県史2 近世史』(宮城県 1976.3)
36-39頁に「白石城の戦」とその後について記述されていますが、福島方面に進出したものの、深く敵地に入ることを危惧して10月6日に軍を引き返したと書かれています。
・『図説 伊達政宗』(仙台市博物館/編 河出書房新社 2002.7)
86-87頁に「白石の合戦と関ヶ原」と題された項があり、合戦図、書状、簡単な布陣図が記載されています。
・<白石歴史探検マップ(平間晃の小学校教育研究室>インターネット
http://www.hirama.net/wiki/wiki.cgi/shiroishi?page=%B0%CB%C3%A3%C0%AF%BD%A1%BF%D8%BE%EC%C0%D7(2015/04/10現在)
個人の作成されたサイトですが、 「政宗軍は、白石城のすべてが見える白石川の北側の小高い丘(現在の陣場山)に陣(じん)をしきました。政宗のけらいである片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)は、白石城をこうげきするため、ほかの軍の協力を得て、上杉軍を孤立(こりつ)させる作戦をとりました。七ヶ宿(しちがしゅく)・越河(こすごう)の道をおさえ、米沢(よねざわ)や福島(ふくしま)から白石に入るすべの道をふさぎました」と記述されています。
山形県史の記述についてですが、
・『山形県史第2巻 近世編上』(山形県 1985.3)
42-51頁に関ヶ原の合戦に伴う奥州での戦いが記載され、46頁に白石城を落としたことと伊達・信夫郡の進入について記されていました。
「大津文書」については史料編が膨大なこともあり、確認できませんでした。
[事例作成日:2015年4月10日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 8版)
- 参考資料
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- 大日本史料 第12編之50 東京大学史料編纂所∥編纂 東京大学 (9)
- 角川日本地名大辞典 4 「角川日本地名大辞典」編纂委員会∥編 角川書店 (243-244)
- 日本歴史地名大系 4 平凡社 (117)
- 宮城県史 2 宮城県∥著 宮城県史刊行会 (36-39)
- 図説伊達政宗 仙台市博物館∥編集 河出書房新社 (86-87)
- 山形県史 第2巻 山形県∥編さん 山形県 (42-51)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌事項調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000177326