レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年04月29日
- 登録日時
- 2023/07/16 16:35
- 更新日時
- 2023/07/16 16:35
- 管理番号
- 0000002368
- 質問
-
解決
幕府奧医師の竹内玄同について質問します。
(1)出生の時期について、前は1805年でしたが最近1795年になっています。なぜ変わったのか、その根拠を教えて欲しい。
(2)シーボルト門下生だった時期について、文政9年~11年の日記(伊東昇廸)に竹内玄同がでてこないので、シーボルトの門下であった時期について根拠となる資料があれば教えて欲しい。
- 回答
-
(1)出生時期について
当館ですでに調べている文献は、以下の人物文献索引でご覧いただくことができます。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=080-1902910-0
ここには13の文献が採録されており、生年については1795年説と1805年説、1806年説の3説が確認されます。
このうち、『シーボルト伝』(初版1896年)、それを引用した『福井県医学史』(1968年)およびそれを参照したと思われる『福井県大百科事典』(1991年)は生年を寛政7年(1795)としています。
ただし『シーボルト伝』は冒頭「寛政七年(一七九五)-明治十三年(一八八〇)」としながら、末尾近くで「明治十三年一月十二日其家に歿せり。享年七十又六」としており、逆算すると文化2年(1805)が正しいことになります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874833/417
この「享年76」を裏付けるものとして、『越前人物志 中下』に収載される「渭川院竹内正幹之墓」という墓碑銘文が参考になります。
ここには「明治十三年一月十二日、以寿終、寿七十六」とあります。
また、玄同はのちに正五位を贈られていますが、そのときの申請書が国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できます。
ここにも「明治十三年一月年七十六ヲ以テ病歿ス」とあります。
https://www.digital.archives.go.jp/img/3233680
以上のことから、文化2年(1805)出生で問題はないように思います。
(2)シーボルト門下生だった時期
『シーボルト先生』には「壮年の時に京都に遊び、藤林普山に従ひて蘭学を攻め、その後長崎に至りてシーボルト先生に親炙して、蘭学を研究し、伊東玄朴、戸塚静海等と親しき友垣を結べり」とありますが、具体的な時期には言及されていません。
『福井県医学史』にはこれに続けて「学成って天保四年(一八三三)郷里に帰り、抜擢されて丸岡侯の侍医となる」とあることより、入門時期はこれ以前であることだけはわかります。
その他文献および先の贈位申請書も参照しましたが、具体的な入門期間について述べられたものはありませんでした。
なお、『シーボルト先生』には参考文献として、『中外医事新報』「竹内玄同伝」が挙げられており、このなかにお尋ねの件に関する記載がある可能性はあります。
ただし、国立国会図書館所蔵分(57~1286号)に該当する記事がないことから、1~56号にこの記事が載っている可能性はありますが、当館ではこれ以上お調べする手立てがございません。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000336009