レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年9月28日
- 登録日時
- 2023/01/25 11:18
- 更新日時
- 2023/02/09 19:38
- 管理番号
- 中央-1-0021623
- 質問
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解決
与野七福神の由来と本尊の関係について知りたい。
- 回答
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与野七福神めぐりが始まった経緯については、以下の新聞記事に詳しく載っている。
・「七福神めぐりで地元売り出し 与野・新しい観光名所へ試み」埼玉新聞 1984年12月18日 8面
この記事によると、観光地として地元を売り出す目的で、七福神めぐりが企画されたとのこと。試みの中心は与野七福神奉讃会(柏計助会長)で、市史編さん委員でもある柏さんが与野市内にある神社仏閣を訪ねて調べたところ、七福神のうち五福神までがまつられていることが分かり、さらに二福神を市内に配置して、七福神めぐりの地として与野市を売り出そうということになり、一年がかりで準備を進めてきたようだ。
五福神は円乗院(大黒天)、妙行寺(毘沙門天)、弘法尊院(弁財天)、一山神社(恵比寿天)、天祖神社(寿老尊)で、それぞれ守護神などとして、本尊、神体とは別にまつられてきたもの。日蓮宗の守り本尊とされる毘沙門は、妙行寺が真言宗から日蓮宗に改宗した時にまつられたものと思われるそう。
正円寺の福禄寿と、円福寺の布袋尊はもともとあったものではなく、このときに置かれたものであることが分かった。
以下の新聞記事にも、「与野七福神は、与野七福神奉讃会(柏計助会長)の企画で、一昨年からお目見えした。」「同市はもともと鎌倉街道に面して発展した歴史と伝統があり、同会は市内の神社仏閣を訪ね歩いて七福神を掘り起こした。」という記述がある。
・「お正月は七福神めぐり 与野七福神めぐり」埼玉新聞 1986年12月31日 11面
七福神の札所は、その後何度か変更があり、1997年1月から妙行寺→鈴谷大堂(毘沙門天)に、2007年1月から正円寺→上町氷川神社(福禄寿)に、2014年1月から弘法尊院→御嶽社(弁財天)に変更されている。
変更を伝える記事は以下のとおり。
・「新たな年の幸福願い地元で七福神めぐり 今も残る武蔵野の面影」埼玉新聞 1996年12月31日 6面
→前年までは妙行寺だった毘沙門天が鈴谷大堂になっている。変更の経緯、理由については特に触れられていない。
・「新しい年の幸福祈願 七福神巡りに行こう 昔の鎌倉街道を歩く 与野七福神」埼玉新聞 2006年12月31日 4面
→「幸福(福)と高給(禄)と長寿(寿)の神・福禄寿を祭る寺社が、正円寺から氷川神社に変更された。」との記述あり。変更の理由については特に触れられていない。
・「新しい年の幸せを願う 地域楽しむ七福神巡り 与野七福神 仮装パレードに注目」埼玉新聞 2013年12月31日 8面
→「今回から、弁財天を祭る寺社が変わった。」という記述があり、七福神巡りコースに「御嶽社」の名がある。変更の理由については特に触れられていない。
以下、与野七福神について記述のある資料をまとめて紹介した。
・『埼玉七福神めぐり』伊予田浩美/著 幹書房 2003年
p2-7 与野七福神めぐり
・『与野まち風土記 与野市制40周年記念』与野市教育委員会生涯学習課/編集 与野市教育委員会 1998年
p115-116 散策コース(1)として、与野七福神が紹介されている。p115が地図、p116に解説があり、「与野の七福神は昭和60年につくられたもの。」という記述がある。
・『与野七福神めぐりMAP』与野七福神パレード実行委員会 2006年,2013年
・『与野七福神MAP』与野七福神パレード実行委員会 2000年-2003年,2010年
- 回答プロセス
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『広報よの』『与野市史』等の資料もあたったが、七福神の札所が変更された経緯や理由が分かるものは見つからなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 仏会 (186 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 与野七福神
- さいたま市中央区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000327867