レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 1997/08/29
- 登録日時
- 2005/02/11 02:43
- 更新日時
- 2007/08/09 15:35
- 管理番号
- 埼熊-1997-049
- 質問
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解決
『日本噴火志』(震災予防調査会編 五月書房 大正7年刊の復刻)の記述(出典は「日本書紀」)と『国史大系』中の「日本書紀」の天武紀の年数の記述が1年異なっているが何故か。西暦年680年がそれぞれ天武8年、9年とくい違っている。
- 回答
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672年、壬申の乱(皇位継承をめぐる内乱)〉で天智天皇の長子大友皇子が縊死、大海皇子が天武天皇として即位する。「日本書紀」は大友皇子の即位を認めていなかったが、明治3(1870)年弘文天皇と追諡された。これを受けて『日本噴火志』の編者は673年を天武元年ととらえ、記述で天武紀の〈年〉の表示を「日本書紀」の〈年〉と1年ずらしたと思われる。
- 回答プロセス
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各種日本史年表にあたると天武元年を672年とするものと673年とするものの両方がある。
埼玉県立文書館に問い合わせ①の情報を得る。
①大友皇子は1870(明治3)年明治天皇によって弘文天皇と追諡された。つまり弘文天皇の在位が認められた(『日本歴史大辞典 2』より)。『日本噴火志』の編者はこれを受けて673年を天武元年ととらえ、記述の中で意図的に天武紀の〈年〉の表示を「日本書紀」の〈年〉と1年ずらしたと思われる。
②「日本書紀」が編纂された時点では弘文天皇の在位は認められていなかった(『国史大辞典 2』より)。
③『壬申の乱 研究史』(星野良作 吉川弘文館)に「大友皇子即位論の流れ」として詳しい記述あり。以上を回答する。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 歴史補助学 (202 9版)
- 参考資料
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- 『壬申の乱 研究史』(星野良作 吉川弘文館)
- キーワード
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- 年号-紀年法
- 日本-歴史
- 天武 天皇(テンム テンノウ)
- 大友 皇子(オオトモノ ミコ)-弘文天皇(コウブン テンノウ)
- 照会先
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- 埼玉県立文書館
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- その他
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000018012