レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月25日
- 登録日時
- 2013/09/25 12:14
- 更新日時
- 2013/09/25 12:36
- 管理番号
- 20130925-1
- 質問
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解決
本居大平について知りたい。
- 回答
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本居大平 【もとおり・おおひら】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%A4%A7%E5%B9%B3 (2013/09/25確認)
朝日日本歴史人物事典
生年: 宝暦6.2.17 (1756.3.17)
没年: 天保4.9.11 (1833.10.23)
江戸中・後期の国学者。旧姓稲掛氏。幼名常松,のち茂穂,重穂,大平。通称十蔵,十太,十介。伊勢国(三重県)松坂の豆腐商稲掛棟隆の子。本居宣長の養子となり,家督をうけたのちは,本居三四右衛門と称し,藤垣内翁と呼ばれた。13歳のとき,宣長に入門,以後,宣長の旅に随行するなど近仕した。寛政11(1799)年44歳で宣長の養子となり,宣長の死後,眼疾の本居春庭に代わって本居家を継ぐ。紀州(和歌山)藩主徳川治宝に仕え,文化5(1808)年『紀伊続風土記』選進の命を蒙り,6年には松坂を離れて,妻子を連れて和歌山に移住した。藩主に進講したり,門人の要請によって伊勢,松坂,京都に出向いて指導した。門人も1000人以上におよんだ。しかし学問的には特に卓抜な業績はなかった。曲亭馬琴が「人品良き人」(『羇旅漫録』)と評したように,その温厚篤実な人柄によって本居学派をまとめた。大平は長男,次男,3男を相次いで亡くし,3女藤子の婿の浜田鎌次郎を養子として,本居内遠として家を継がせた。
本居大平(もとおりおおひら) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%A4%A7%E5%B9%B3/ (2013/09/25確認)
(1756―1833)
江戸後期の国学者、歌人。通称三四右衛門、藤垣内(ふじのかきつ)と号した。伊勢(いせ)松坂に豆腐商稲掛棟隆の子として生まれる。父も本居宣長(のりなが)の高弟。13歳で宣長に入門し、44歳で宣長の養子となる。宣長の実子春庭(はるにわ)が盲目であったため、宣長の死後47歳で家督を相続して紀州侯に仕え、和歌山に移住する。天保(てんぽう)4年9月11日78歳で没した。・・・
研究書に『神楽(かぐら)歌新釈』、歌文集に『稲葉集』『藤垣内文集』があり、『本居全集』『増補本居宣長全集』に収められている。
もとおりおおひら【本居大平】 国史大辞典
一七五六 - 一八三三
江戸時代後期の国学者。本居宣長の養子。旧姓は稲掛(いながけ)氏。藤垣内(ふじのかきつ)翁と称せられた。宝暦六年(一七五六)二月十七日、伊勢国飯高郡松坂(三重県松阪市)に商家の子として生まれる。父の稲掛棟隆は宣長の門人であった。十三歳で宣長に入門。四十四歳の寛政十一年(一七九九)、宣長の養子となる。宣長は和歌山藩に召し抱えられていたが、宣長の没後、宣長の長男春庭が失明していたため、大平が代わって本居家の家督を相続することになり、四十七歳の享和二年(一八〇二)、跡目を仰せ付けられて和歌山藩に出仕した。文化六年(一八〇九)和歌山に移住。以後、本居家は、松坂に残った春庭の流れと、和歌山の大平の流れとに分かれた。・・・
著書に、注釈書『神楽歌新釈』、古道論『古学要』、歌集『稲葉集』などがある。なお、東京大学文学部に蔵される本居文庫は、大平の蔵書を主とする和歌山本居家の旧蔵書で、大平の著書や手沢本のほか、宣長関係の資料をも含む。『本居大平全集』(『(増補)本居全集』一一)がある。
[参考文献]
『(増補)本居全集』首巻
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本思想 (121 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 本居大平 もとおり おおひら
- 本居宣長 もとおり のりなが
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137524