レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年4月27日
- 登録日時
- 2022/10/16 17:05
- 更新日時
- 2023/07/20 15:11
- 管理番号
- 中央-1-0021588
- 質問
-
未解決
鯛ヶ窪はいつぐらいからある小字なのか。
- 回答
-
この小字がいつぐらいからあるのか、具体的な年代は特定できなかった。
資料で「鯛ヶ窪」という名称が確認できる一番古い年は明治8年だった。
(1)『角川日本地名大辞典 11』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1980年
p1385~「小字一覧」あり。こちらには「武蔵国郡村誌」(明治8~9年)中の字地の項に書きあげられた地名を収録しているとある。
p1387〔浦和宿〕の項目内に「鯛ヶ窪」がある。
(2)『武蔵国郡村誌 第2巻』埼玉県/編纂 埼玉県立図書館 1954年
p57「浦和宿」の「字地」として「鯛ヶ窪」あり。この資料の初版は明治8年刊。
資料(3)では明治39年、資料(4)では大正3年時点でもこの小字があることが確認できた。
(3)『浦和市史 第4巻〔1〕 近代史料編1』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1975年
p676「勧化院新設ノ記事」で「北足立郡浦和町字鯛ヶ窪地内に一町余歩の敷地を選定し建設費一萬余円を以て大なる勧化院を新設する事となり(略)」との記述あり。この記事の出典は「明治三十九年二月六日埼玉新報」とある。
(4)『浦和市議会史 上巻』浦和市議会史編さん委員会/編 浦和市議会 1960年
p345「四墓地新設ノ件諮問(再)」において、「浦和町字鯛ヶ窪」の小字を確認できる。この諮問は大正3年(1914)9月19日町会の記録である。
資料(5)では、昭和12年の耕地整理によってこの小字がなくなったことが記述されている。また、文化8(1811)年の浦和宿絵図に「大ヶ窪」という地名が確認でき、これが「鯛ヶ窪」ではないか、という記述もあるが、著者の推論という断りがあり、「鯛ヶ窪」=「大ヶ窪」である確証がないため、参考として紹介するにとどめた。
(5)『さいたま市地名の由来 地名からわかること』青木義脩/著 幹書房 2013年
p56「市らしい浦和に(町名)」の項では、昭和12年の浦和耕地整理によって在来の字名が姿を消し新しい町名ができたことが記されており、直前まで用いられていた字の一つとして「鯛ヶ窪」も挙げられている。
p211「伝説地名」の項に以下の記述がある。
「これは推論であるが、浦和区常盤のさいたま市役所辺りは鯛ヶ窪という字であったが、文化八(一八一一)年の浦和宿絵図には、大ヶ窪とも書かれている。発音がダイガクボの可能性もあり、ダイタクボに近い。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 鯛ヶ窪
- さいたま市浦和区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000322671