レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年03月02日
- 登録日時
- 2016/08/26 00:30
- 更新日時
- 2016/12/07 00:30
- 管理番号
- 3A16002731
- 質問
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解決
坂上廣野麿屋敷跡の碑が大阪市平野区平野本町3-4に建っています。碑の設置者や設置にいたる経過を教えてください。
また、坂上廣野麿の屋敷の敷地は、現在の住所ではどのあたりになるのでしょうか。
- 回答
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以下のとおり資料をご紹介しました。
・屋敷並びに屋敷碑の設置について
『わがまち平野のスケッチ』 (平野区コミュニティ協会 1990.12)
p.30 「93.坂上家邸跡(さかのうえけやしきあと)」の項に、説明文として「長宝寺の西北の一角は、坂上廣野麿の子孫即ち平野殿の累代の居宅であった。
(中略)明治41年(1908)当主広慶死亡後相続人は北海道に移住、留守中は七名家に於て管理されていたが、屋敷は荒れるにまかせていた。昭和58年、老朽化により取り壊わされ、跡地に住宅が立ち並び、その一角に記念碑が建てられた。」とあります。
また、碑の銘文で左側面に「昭和58年5月1日 平野戸主会」とある旨記載されています。
・現在の住所について
『平野郷町誌』(清文堂出版,1991)
p.434 坂上家邸址の項に「京町五丁目に在る。旧長宝寺の西北隅を占めて居った。坂上廣野麿の子孫即ち平野殿の累代の居宅であった。明治に到るまで連綿として継続して居ったが、同四十一年当主廣慶死亡後相続人は目下北海道に現住留守中は七名家に於て保管せらる」とあります。
p.410-413 長宝寺の項p.410に「一角に坂上氏の居宅がある」と記述があり、p.411「元禄ニ年長宝寺除地図」には「坂上民部宅(南北)六間×(東西)六間半」と書かれています。
『大阪史蹟辞典』( 三善 貞司/編 清文堂, 1986.7)
p.210-221 坂上広野麿墓の項に「坂上家は名目上の宗家となって長宝寺に移り」とあります。
上述の「京町五丁目」について、以下の資料で確認しました。
『大阪の町名 : その歴史 上巻』(大阪市市民局/編集 大阪市市民局, 1990.3)
p.394-395 「平野京町一-六丁目」の項に、「町域の変遷」として、「昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない東住吉区に編入された。」、
また、「住居表示の実施」として、「昭和49年7月22日の分区にともない平野区に編入され、同日付の住居表示の実施にともない、平野京町一-六丁目は、(中略)新しい平野本町一・三丁目(中略)の各一部となった」との記述があります。
上述の資料によれば、碑のある大阪市平野区平野本町3-4付近に屋敷があったようです。
- 回答プロセス
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1.資料1を確認
2.大阪文献データベースを”坂上広野”、”坂上廣野”で前方一致検索するが、ヒットする資料はなし。
3.大阪文献データベースを”坂上家”で検索し、資料2が見つかる。
4.中央図書館3F大阪コーナー NDC分類291、地理区分171(平野区)の書架をブラウジングし、資料3が見つかる。
5.資料2に記載のあった「京町五丁目」について、資料4を確認する。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <0000196608> 平野郷町誌 清文堂出版 1991 4-7924-0091-0 (資料2)
- 当館書誌ID <0000255442> わがまち平野のスケッチ 平野区コミュニティ協会/編集 平野区コミュニティ協会 1990.12 (資料3)
- 当館書誌ID <0010764332> 大阪の町名 -その歴史- 上巻 大阪市市民局/編集 大阪市市民局 1990.3 (資料4)
- 当館書誌ID <0000214926> 大阪史蹟辞典 三善 貞司/編 清文堂 1986.7 9784792423414 (資料1)
- キーワード
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- 大阪府大阪市平野区
- 坂上廣野麿
- 長宝寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- その他(庁内)
- 登録番号
- 1000196395