レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/01/20
- 登録日時
- 2023/02/18 00:30
- 更新日時
- 2023/02/18 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-220184
- 質問
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解決
仙台藩内で実施された種痘について知りたい。またその種痘が牛痘によるものか,人痘によるものかについても知りたい。
- 回答
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仙台藩内で実施された種痘については,下記資料に記載があります。
※【 】内は当館請求記号です。
資料1 仙台市史編纂委員会編『仙台市史 第4巻』仙台市, 1951【K225/セ1-3/4】
「仙臺藩に於ける醫學及蘭學の發達」-「後編 仙臺藩に於ける蘭學の發達」-「第三章 仙臺藩疫病志」-「第三節 仙臺藩に於ける種痘の沿革」の項
pp.509-510「(前略)蘭醫モーニッケが嘉永二年(一八四九年)牛痘痂を長崎に輸入して接種してより,日本各地に於て牛痘種法が盛んに行われるようになった。仙臺に於ける種痘の創始者と稱されるのは養賢堂蘭學局總裁小野寺丹元,仙臺藩醫員福井玄?修昌である。丹元は嘉永二年七月養賢堂蘭學局總裁となり,(中略)翌三年四月歸藩したが,その際モーニッケ苗を持參し,丹元の妻蟹井氏の姪舟子(のち丹元の養子魯一の妻となる,當時五才)に施行した。玄?は(中略)嘉永三年牛痘が江戸より傳わるや,小倉三五郎の囑を受けてその孫長太郎(當時三才)に種痘を試みた。從つて仙臺に於ける種痘の創始は嘉永三年(一八五〇年)で,モーニッケ苗によるものであつた。(後略)」
資料2 宮城県史編纂委員会編『宮城県史 22』宮城県史刊行会, 1962【K201/ミ1/22】
「疫癘志」 - 「痘瘡」の項
p.475「人痘苗による種痘はかなり前から行われ,牛痘苗も嘉永三年に伝えられたが,実験の域を脱せず,本県で一般民衆に集団的に施行したのは,小倉三五郎が文久二年二月下旬に名取郡北方で行ったのが最初であつた。このとき,幼児を対象として約三百人について行つたとあるが,痘瘡の流行にいかなる影響を及ぼしたかは明かでない(後略)」
資料3 小笠原康隆[著]『涌谷の牛痘接種』東北プリント(印刷), 2019【K493/2019.X】
仙台藩内の涌谷地方で行われた牛痘接種に関する記述があります。
また,大槻磐渓が子どもたちに種痘を接種させたことについて,下記資料に記載がありましたので参考までにお知らせします。
資料4 小田泰子著『種痘法に見る医の倫理』東北大学出版会, 1999【493.82/1999.Y】
「第八章 日本における人痘法」-「第三節 トルコ式人痘法の伝播と普及」 - 「2 伊東玄朴と大槻磐渓『磐渓先生事略』」の項pp.146-148「(前略)磐渓も長男・順之助を天然痘で失うことになる。長男の死を機に大槻磐渓は子供たちに人痘法を受けさせる決心をした。大槻磐渓は仙台藩の学問所・養賢堂の頭取をも勤めた人である。(中略)順之助を失った後に,磐渓は子供たちに種痘をすることについて玄朴に相談した。「これまで人痘法を試してみたいと考えていたが,その機会がなくていた」玄朴であったので,さっそく磐渓の子供たちに種痘を行うことになった。(中略)大槻磐渓の7人の子供のうち,1人は天然痘で死亡し,4人は人痘法を受け,2人は牛痘法を受けた。種痘法の歴史そのものといえる。」
資料5 大槻如電口授 ; 大槻文彦補言『磐渓事略』大槻茂雄, 1908【K121/オ1】
pp.54-58「第二十三談」に,大槻家の子どもたちに人痘接種が行われた経緯について述べられています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 内科学 (493 9版)
- 参考資料
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- 仙台市史編纂委員会/編. 仙台市史 第4巻. 仙台市, 1951【K225/セ1-3/4】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 22. 宮城県史刊行会, 1962【K201/ミ1/オ22】:
- 小笠原康隆/[著]. 涌谷の牛痘接種. 東北プリント(印刷), 2019.10【K493/2019.X】:
- 小田 泰子/著. 種痘法に見る医の倫理. 東北大学出版会, 1999.11【493.82/1999.Y】:
- 大槻如電/口授 大槻文彦/補言. 磐渓事略. 大槻茂雄, 1908【K121/オ1/イ】:
- キーワード
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- 種痘 -- 宮城県 -- 歴史 -- 近世
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000329113