レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2003年10月23日
- 登録日時
- 2020/04/17 15:50
- 更新日時
- 2020/07/21 17:15
- 管理番号
- 2020-01
- 質問
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解決
終戦を告げる玉音放送の後に、特攻隊設立の責任を取って特攻を行った大将がいたと思うが、誰か。
- 回答
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終戦後に特攻した将官は宇垣纒(うがき まとめ)中将のみで、肩書きが「大将」の人物は発見できず。
特攻隊の生みの親と呼ばれる大西瀧治郎(おおにし たきじろう)は中将で割腹自刃している。
- 回答プロセス
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「特攻隊」で当館資料検索
【資料1】p276に終戦後に特攻した人物の一覧があった。p282に大西瀧治郎中将、p283に宇垣纒中将の略歴・写真・人物等あり。
【資料2】~【資料7】
終戦後に特攻した大将についての記載なし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 戦争.戦略.戦術 (391 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『血戦特攻隊の記録』(ツバサ広業 2000年)<当館請求記号: 396.8-ケツ>
- 【資料2】『海鷲の割腹 海軍中将 大西滝治郎』 (秋永 芳郎/著 光人社 1983年) <当館請求記号:289.1-オタ-1983>
- 【資料3】『死に往く長官 山本五十六と宇垣纒』上下(蝦名 賢造/著 西田書店 1989年)<当館請求記号:N6-696>
- 【資料4】『私兵特攻 宇垣纒長官と最後の隊員たち』(松下 竜一/著 新潮社 1985年)<当館請求記号:N6-449>
- 【資料5】『私兵特攻 宇垣纒長官と最後の隊員たち』(松下 竜一/著 新潮社 1985年)<当館請求記号:N6-449>
- 【資料6】『完本・太平洋戦争』上下(文芸春秋/編 文芸春秋 1991年)<当館請求記号:N6-フ10>
- 【資料7】『戦藻録』前後(宇垣 纒/日記,小川 貫璽/編,横井 俊幸/編 日本出版協同 1952年)<当館請求記号:391-57>
- キーワード
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- 神風特別攻撃隊
- カミカゼ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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2020年7月追記
『特攻の思想 大西瀧治郎伝』(草柳 大蔵/著 グラフ社 2006年)<当館請求記号: 289.1-オタ-2006>
p308-309「戦史の上から見れば、特別攻撃隊の発進に踏み切ったのは、たしかに大西瀧治郎中将そのひとである。しかし、命令者の位置にいて、特攻隊発進を命令したものとなれば、寺岡謹平中将も豊田福武大将も、その名が記録に残っている。」
※豊田福武(とよだ そえむ)は大将だが1957年まで生存。寺岡謹平(てらおか きんぺい)も1984年まで生存。
『特攻の真意 大西瀧治郎和平へのメッセージ』(神立 尚紀/著 文藝春秋 2011年)<当館請求記号: 289.1-オタ-2011>
関連記載なし
『特攻隊員たちへの鎮魂歌(レクイエム)』(神坂 次郎/著 PHP研究所 2005年)<当館請求記号: 210.75-コジ-2005>p157に、敗戦の夜8時、鈴木京大佐が菅原道大(すがわらみちなお)中将に特攻出撃を迫って拒絶されたとある。
『特別攻撃隊全史』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会/編 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会 2008年)<当館請求記号: 210.75-トク-2008>
p9-10 「特攻隊員の中にも、特攻を肯んせず自決する者が生じた。満州では特攻隊員の教官であった10名が8月19日、侵入したソ連戦車群に突入した。」
p471-472に8月19日ソ連戦車群に突入した10名、8月15日夕刻に突入した17名があるが、全員大尉以下。
p392 「大西瀧治郎之墓」本人・墓・碑・遺書の一部の写真あり
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000280696