レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年11月23日
- 登録日時
- 2009/11/23 17:51
- 更新日時
- 2014/02/06 17:23
- 管理番号
- 21-33
- 質問
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解決
青い目の人形を日本に送った宣教師シドニー・ギューリックが愛媛県に住んでいたのはいつか。住所は分かるか。
- 回答
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明治30(1897)年11月から明治37(1904)年まで松山に住み、伝道に当たった(【資料1】茂 義樹「シドニー・ギューリックについて」、【資料2】P360「ギュリック一家」の項)。
【資料5】P78 明治30年11月27日「本日ギュリキ氏夫妻子供三名ト倶ニ当地到着ニ付」「三津浜マデ迎エノタメ罷越ス(教会日誌)」、P103 明治37年8月8日「ギュリキ氏が、一旦帰米ののち同志社神学校の教授に就任するにつき、送別会を開いた。(教会日誌による)」
住所は不明。
その後も来日を繰り返しているが、詳細は不明。昭和2年3月には松山にいた。
- 回答プロセス
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(1)「海南新聞」昭和2年3月6日6面に「日米親善の為め両国の児童が握手し十年後の新国民が平和な世界を建設したいが為めに青いお目々の人形を贈りました 在松のギユリツク氏語る」 、同13日6面に「遠来のお人形お礼は何に? 文部省でお雛さんか日本人形を送る意向 松山にゐるギユリツクさんは今のお人形がよいと云はれる」の記事あり。
(2)【資料3】P11に取材協力者の記憶による「昭和10年代の料亭街のまちなみ」があり、教会の5軒隣が「ギューリック先生」となっている。現在の地図とあわせると、「ギューリック先生」宅は現在の松山市二番町か同三番町。【資料5】P178には「二番町旧ギュリック氏邸」とある。しかしシドニー・ギューリックかどうかは不明。
【資料1】P6によると、昭和9(1934)年に引退後、昭和20(1945)年に没するまで、日本及び東洋とアメリカの相互理解の実現に努めたとのことなので、当人の可能性はある。しかし、親戚も多数宣教師として在日しているので、断定できない。
【資料4】P229に宣教師リーズ・ギューリックが大正12(1923)年夜学校に着任、P255に昭和12(1937)年退職・帰米とある。リーズ・ギューリックの住まいの記録がないので断定できないが、時期を考慮すると、「ギューリック先生」はシドニーではなくリーズ・ギューリックだったのではないか。
- 事前調査事項
- NDC
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- 外交.国際問題 (319 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】「キリスト教社会問題研究 第34号」(同志社大学人文科学研究所、1986年)<当館請求記号:K334 /19>
- 【資料2】『愛媛県百科大事典 上』(愛媛新聞社、1985年)<RK290 /63 /1> (下巻P499「松山同情館」にもギュリックの記載あり)
- 【資料3】雑誌「松山百点 199号」(松山百店会、1998年)
- 【資料4】『松山関連宣教師文書 第2部』(竹田 照子編訳、岩波ブックサービスセンター製作、1999年)<K195.7 /マツ2 /1999>
- 【資料5】『松山教会百年史稿』(日本基督教団松山教会、1986年)<K195 /3>
- キーワード
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- ギユリツク氏(シドニー・ギューリック)
- 親善人形
- 答礼人形
- ギユリキ氏(シドニー・ギューリック)
- Sidney Lewis Gulick(シドニー・ルイス・ギューリック)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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「海南新聞」大正15(1926)年8月13日6面に「アメリカの子供たちから数千の人形を日本へ送る」の記事がある。ワシントンの「世界児童友愛会」では来年のひな祭りに日本に人形を送る計画である、と会長ガーネツト・エムリツチ氏が語ったとのこと。
【資料1】に登場する、シドニー・ギューリックが設立した「世界児童親善委員会(Committee on World Friendship Among Children)」のことか。
(2010年12月28日追記)
『青い目の人形と近代日本 渋沢栄一とL.ギューリックの夢の行方』(是沢博昭/著、世織書房、2010年)の目次と巻末の註を確認した限りでは(著者は愛媛県出身だが)愛媛県内の情報なし。
(2014年2月6日 【資料5】を確認)
親戚の宣教師オラメル・ヒンクリ・ギューリックについての石川県立図書館作成事例(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000066440)あり。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000060062