レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年10月01日
- 登録日時
- 2012/02/11 13:36
- 更新日時
- 2012/02/11 13:36
- 管理番号
- 福井県図-20111001
- 質問
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解決
慶応3年から明治元年の岩佐純の居所や活動内容について知りたい。
- 回答
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①「士族」(松平文庫)・・・幕末から明治4-5年までの期間の、福井藩士当主の履歴がわかる史料(何年何月に何をしたかが書かれている)。
これに「一 同三卯十一月二日宰相様御上京御供出立、巳三月三日為立帰着」とあり、慶応3年11月2日から明治2年3月3日まで福井を離れ京都に行 っていたことがわかるが、これ以上の詳しいことはわからない。
②「御用日記」(松平文庫)・・・藩主松平慶永側近の執務日記。慶永の日常が記録されている。
これに、慶応3年11月8日「岡崎御屋鋪江御着被遊・・・」、11月11日「診玄珪」、11月15日「診玄珪」、11月19日「診玄珪」とあり、4日おきに岩佐純が 当番医として慶永を診ていたもよう。このことから、岩佐純も慶永から遠く離れた場所ではなく、慶永の近くに住んでいたのではないかと推測される。
③慶応3年から明治2年頃の慶永の居所は京都の岡崎屋敷(『福井県文書館資料叢書6 越前松平家家譜 慶永3』2011年刊 より)。岡崎屋敷の位置は、京都市美術館などの近くにあったのではないかと思われる(県文書館調査員より)。
*「士族」「御用日記」(松平文庫)とも、福井県文書館で翻刻、調査等している。
幕末から明治の初めまでの越前藩の動向がわかる史料として、越前藩家老本多修理が書いた公用日記がある(翻刻したものが『越前藩幕末維新公用日記』として刊行)。
本多は慶応3年11月に慶永とともに京都へ行っており、京都がこの公用日記の主な舞台となっているとのこと。岩佐の動向がわかるかどうかは未確認ながら、京都における越前藩関係の出来事がわかる。
- 回答プロセス
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1.『福井県医学史』の人物篇の項や人物誌などを確認したが、京都で蘭学塾を開いたというような記述はなかった。
2.福井県文書館に問い合わせる。
- 事前調査事項
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慶応3年から明治元年、信州出身の学生が京都で蘭学を学んだが、その先生が岩佐純と学生の伝記にある。(「京都で越前の展医岩佐純先生の蘭学塾に通学することを得・・・」)
岩佐純について、地元図書館の参考書、インターネットで調査済み。
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 北陸地方 (214 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 岩佐純
- 玄珪
- 蘭学
- 照会先
- 寄与者
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- 福井県文書館
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000101343