レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年12月22日
- 登録日時
- 2011/12/27 19:45
- 更新日時
- 2011/12/27 19:45
- 管理番号
- tr219
- 質問
-
解決
『評伝三島通庸 明治新政府で辣腕をふるった内務官僚』(幕内満雄/著 暁印書館 2010)を読むと、三島通庸は12月に「栃木県に赴任」とあるが、翌年の4月に宇都宮町に赴任した折、「大歓迎宴があった」とも記されている。このときの三島通庸の動向がわかる資料はないか。
- 回答
-
三島通庸の動向について、以下の資料から関連する記述が確認できました。
・『宇都宮市史 第7巻 近・現代編1』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1980)
・『土木県令・三島通庸』(丸山光太郎/著 栃木県出版文化協会 1979)
ただ、それぞれの資料で日付等の記載内容が異なるところもあるため、当館所蔵の『栃木新聞』(現・下野新聞)の当時の記事も併せて確認しました。「三島通庸」の名前が確認できたのは、以下の記事になります。(引用の際、一部旧字は新字に改めています)
明治16年12月12日
○県令着栃 三嶋県令は昨日赴任着栃せられたり(略)
明治17年1月4日
○県令出京 三嶋県令には御用筋にて去月廿七日出京致されたり
明治17年1月26日
○三島本県令 同県令には在京中昨今少しく御病気のよしにて(略)県庁移転には是非とも帰県せらるべき筈なりしが御全快まで見合せられたりと聞く(後略)
明治17年2月11日
○三島県令 同県令にはご病気にて滞京せられし所ろ十二日頃押して宇都宮へ来られ同所鎮台分営を借受られ県庁移転の事に着手せらるるとか
明治17年2月21日
○県令入浴 本県令三島君には兼て御病気のため滞京せられし所ろ願済の上去る十八日豆州熱田(あたみ)の温泉へ入浴せられしといふ
明治17年3月21日
○三島県令 同君は久々御病気にて熱海へ入浴せらるる所ろ昨今は漸々快気と成られたれは本日頃は帰県せらるるやに聞きしが確否は保証致し難し
明治17年3月25日
○三嶋県令 同県令は本日廿日頃帰庁せらるるよしと(略)右は誤りにて多分は来月二日頃には(略)帰庁せらるる由
明治17年3月29日
○三島本県令 同君には養痾のため熱海へ趣むき居られしところ去る廿五日帰京致されたれば来月三日頃には帰庁せらるるならんといふ
明治17年4月4日
○三島県令 同県令の帰庁せらるるは昨日と聞及ひしに又た延引せられて更に明五日に帰庁致さるるとの事
明治17年4月6日
○県令着県 兼て屡々本紙に記せし通り三島本県令は昨日着県せらるる旨電報が其筋へ届きしとか(略)令公は午後第七時着県せられたり(後略)
、上記2月11日の記事に「せらるるとか」とあるのみで、実際に栃木に戻ってきた
という記事は確認できませんでした。
以上の記事をまとめると、三島県令は1月に上京し、そのまま体調を崩し、熱海で静養し、3月に東京へ戻り、4月に栃木へ戻ってきたようです。
なお、『宇都宮市史 第7巻 近・現代編1』では、「二月十一日宇都宮にもどる」とありますが(p87)、上記2月11日の記事に「せらるるとか」とあるのみで、実際に栃木に戻ってきたという記事は確認できませんでした。
また、『評伝三島通庸』では「二月二一日に宇都宮町にもどる」(p148)、『土木県令・三島通庸』では「二月二十四日に宇都宮に帰って来た」(p246)とありますが、明治17年2月の栃木新聞については、当館に21日までしか所蔵がないので、残念ながらこの記述に関する確認は取れませんでした。
よって、上記期間中、三島通庸が2月に一度来県したかどうか、紙面では確認できませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000099051