(1)『岡山県歴史人物事典』(資料①)によると、生没は「1543~1608・8・20(天文12~慶長13)」とあり、「初代足守藩主。尾張国(現愛知県)の土豪の家に生まれる。父は杉原助左衛門盛安、母は杉原七郎兵衛家利の娘。はじめは杉原孫兵衛と称した。妹お寧(俗称ねね・高台院)は豊臣秀吉の妻北政所、次の妹は浅野長政の妻(『足守木下家譜』)。少年のころから秀吉に仕え、豊臣・木下姓を与えられ改姓する。従五位下肥後守に叙任し、のち大坂城の留守居となり、播磨国姫路城主(2万5000石領有)となる。1600年(慶長5)関ヶ原の合戦の時、妹お寧(北政所)を守護して大炊門を守り、東西いずれの陣営にも参加しなかった。徳川家康の命により所領を備中国賀陽・上房郡のうち2万5000石に移される。その後入道となり、二位法印に叙せられる(『寛政重修諸家譜』)。妻は杉原家次の娘で長男勝俊(第2代足守藩主)、二男利房(第3代足守藩主)、三男延俊(初代日出藩主)、五男小早川秀秋らが生まれる。」とある。
出典には、『足守木下家譜』、『寛政重修諸家譜』、『吉備郡史』が記載されている。
(2)資料①の出典資料を確認する。『寛政重修諸家譜 第18』(資料②)と『吉備郡史』(資料③)では、該当部分を確認できる。『足守木下家譜』については、岡山県立図書館には所蔵なし。
(3)『足守の歴史』(資料④)にも、資料①と同様の記載があるが、「足守藩主として、足守へ一度も来た様子はなく、藩の代官のような仕事は、大井の鳥羽太郎左衛門が行っていたことが、家定から太郎左衛門あて租税徴収に関する文書を出していることにより分かる。また家定は北政所の所領の代官をしており、ねねの世話をもしていたのである。」とも記載されている。
(4)笹井隼堂「足守藩の文化(上)」(資料⑤)では、『藩翰譜』と『野史』を参考にして、木下家定について記載されている。
(5)資料⑤の出典資料を確認する。『新編藩翰譜 第5巻』(資料⑥)では、該当部分を確認できる。『野史』(『大日本野史』)については、岡山県立図書館には所蔵なし。なお、国立国会図書館デジタルコレクションにある『訳文大日本野史 第1~第4』において、目次のみ確認するが、「木下家定」という表記は見つからない。
(6)『国史大辞典 4 き-く』(資料⑦)にも、「木下定家」の項目があり、解説がある。出典には、「『大日本史料』一二ノ五、慶長十三年八月二十六日条、『備中足守)木下家譜』、『寛政重修諸家譜』一一八三」が記載されている。
(7)資料⑦の出典資料を確認する。『大日本史料 第12編之5』(資料⑧)と、前述の『寛政重修諸家譜 第18』(資料②)では、該当部分を確認できる。前述(2)と同様、、『備中足守)木下家譜』(『足守木下家譜』)については、岡山県立図書館には所蔵なし。