レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/5/30
- 登録日時
- 2015/12/02 00:30
- 更新日時
- 2024/03/30 00:37
- 管理番号
- M15021020570230
- 質問
-
第4代・第5代岡山区長であった手代木勝任が明治9年10月~明治11年9月の間、大阪に寄留していたことが確認できる資料が残されていないか。
- 回答
-
・『その後の手代木直右衛門』(資料①)には、『勝任歌集』(資料②)収録の和歌に「大阪周辺の地名が多数登場する」点に著者が着目し、明治9~11年の間、「手代木が息子を頼り大阪に身を寄せ、穏やかな時間を過ごしつつ『勝任歌集』に収録された歌を詠んだ、という推測が成り立つのではないだろうか」と述べている。また、太田健一氏による講演資料『野崎家の維新資料三点の紹介』をもとに「手代木が岡山にやってきた理由として、当時岡山県令を勤めていた元薩摩藩士高崎五六と手代木の幕末時代の関係性を可能性の一つとして指摘しておられる」とも記している。
・『手代木直右衛門伝』(資料③)の「維新後の手代木氏」の項に「手代木勝任君墓碑銘」が掲載されている。その中に「〔明治〕九年十月請罷官、十一年九月任岡山県川上郡長」とあるが、その間の大阪への居留にふれた記述は確認できない。
「高崎五六」をキーワードとしてNDLサーチを検索した結果、次の資料④が該当した。
・『大久保利通関係文書 4』(資料④)には、明治9年12月に大久保利通に宛てた高崎五六の書簡が掲載されている。その中に、手代木勝任に関する内容が含まれており、次のとおり大阪寄留の様子が確認できる。
明治九年十二月十日
「〔中略〕旧高知県権参事青森県手代木勝任ハ為人着実且是迄飽迄逆境ニ処シ頗ル人情世故ニ通シ多年高知ノ難県ニ奉職彼頑固輩之侮弄ヲ受ケス廃合ノ際迄確乎タルハ我輩ノ所不及且所不堪真ニ敬服加之小生も極熟懇ノ交際ニテ此人ナレハ県令ト矛盾スル様ノ義モ有之間敷実ニ当県適当ノ参事ト確信候ニ付於廟堂差障も無之候ハゝ何卒断然当県権参事江御採用被遊下度奉懇願候」
明治九年十二月十一日
「〔中略〕大久保公閣下 追テ手代木ハ当分大阪靭中通リ二丁目紀ノ国橋筋十四番地神崎寺江寄留罷在申候間御決議次第ニハ電報ニテ御用召神速拝命被仰付候様奉願候、誤テ青森県江御用状等参候ニテ往復大ニ日数相掛候間能々御注意可被遊下候」
明治九年十二月十二日
「〔中略〕大久保公閣下 追テ手代木居住所昨日も御通知仕置候処其後左ノ場所ニ転居ノ由ニ付尚又言上仕置候、大阪今橋通リ四丁目心斎橋筋角山本信卿宅ニ寄留 手代木勝任」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
平鈴子『その後の手代木直右衛門』(資料①)には、明治9年10月から明治11年9月までの期間について、手代木勝任に関する記録が確認できないことから「空白の二年間」としており、「明治九年十月に高知県権参事を依願退職して以降、明治十一年九月に岡山県川上郡長就任までの約二年間、手代木直右衛門は一体どこで何をしていたのだろうか。結論から言うと、決定的な史料と巡り合えなかったので分からない」と述べられている。
- NDC
-
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
-
-
①平鈴子『その後の手代木直右衛門』[玉野] 平鈴子,2014,55p. 参照はp.19-29.
②手代木勝任『勝任歌集』岡山 手代木良策,1932,1冊.
③[大泉荘客]『手代木直右衛門伝』[京都] [手代木良策],[1923],104p. 参照はp.92-96.
④立教大学文学部 『大久保利通関係文書 4』 吉川弘文館,1970,269p. 参照はp.194-197.
-
①平鈴子『その後の手代木直右衛門』[玉野] 平鈴子,2014,55p. 参照はp.19-29.
- キーワード
-
- 手代木勝任
- 手代木直右衛門
- 大久保利通
- 高崎五六
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2015021020505170230
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢
- 登録番号
- 1000184840