レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年12月28日
- 登録日時
- 2018/01/03 11:04
- 更新日時
- 2021/07/21 14:19
- 管理番号
- いわき総合-地域532
- 質問
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解決
奥羽出張病院の設立に関わった関寛斎、関内半兵衛、小野亀七に関する資料や写真が見たい。また、小野家の角屋、関内家の和泉屋の場所も知りたい。
- 回答
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①関寛斎について
関寛斎に関する資料は様々ありますが、そのうちいくつかご紹介します。
【資料①】『関寛斎』(陸別町教育委員会 2003)
写真や年表などが多く、関寛斎の足跡についてわかりやすい。
【資料②】『関寛斎 最後の蘭医』(戸石四郎 1982)
関寛斎の伝記。
【資料③】「関寛斎と磐城‐奥羽出張病院‐」(関内幸介)(『うえいぶ 第44号』所収)
奥羽出張病院時代のことが詳しくまとめられている。
②関内半兵衛(和泉屋半兵衛)について
「関寛斎と磐城‐奥羽出張病院‐」(関内幸介)(【資料③】『うえいぶ 第44号』所収)によると、以下のとおりです。
・天保4(1833)年2月8日 生まれ。
・半兵衛の生家の和泉屋は、性源寺門前にあった。
・商人であり、奥羽出張病院の町方の協力者となる。
・明治16(1883)年には、同年3月21日に亡くなった小野亀七の三男で甥でもあった正太郎を養子へ迎えた。
・明治35(1902)年10月20日没。墓は性源寺にある。
・写真は確認できなかった。
・戊辰戦争期の市街図はないため和泉屋の場所については不明だが、【資料④】『平町市街全図』(大正5年)、【資料⑤】『大平町職業要覧明細図』(昭和11年)を確認すると、性源寺の門前に「関内」という家は確認できる。
③小野亀七(角屋小野亀七)について
「関寛斎と磐城‐奥羽出張病院‐」(関内幸介)(【資料③】『うえいぶ 第44号』所収)によると、以下のとおりです。
・『うえいぶ 第44号』P43に写真あり。前列右端で算盤を持ち座っているのが、角屋小野亀七。
・住まいは長橋町である。
・奥羽出張病院を引き揚げる際、亀七は「金五百疋・帯刀・上京を命」じられ、寛斎らと東京へ向かう。前出の写真は、この際撮影したものである。亀七はその後帰国となる。
・帰国した亀七は、性源寺の官軍墓地の監守人を務めた。
・明治16(1883)年3月21日没(生年は不明)。墓は性源寺にある。
- 回答プロセス
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1.資料を調査
上記回答のとおり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 衛生学.公衆衛生.予防医学 (498 9版)
- 日記.書簡.紀行 (915 9版)
- 参考資料
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- 【資料①】『関寛斎』[K/289/セキ・1114068099]
- 【資料②】『関寛斎 最後の蘭医』[K/289/セキ・1110090709]
- 【資料③】『うえいぶ 第44号』[K/051/ウ-44・1114600701]
- 【資料④】『平町市街全図』[地図写真/K/291/イ・1111961189]
- 【資料⑤】『大平町職業要覧明細図』[地図写真/K/291/ダ・1111964852]
- キーワード
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- 関寛斎 せきかんさい
- 関内半兵衛
- 小野亀七
- 奥羽出張病院 おううしゅっちょうびょういん
- 戊辰戦争
- 性源寺 しょうげんじ
- いわき 病院史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000227880