レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/06/10
- 登録日時
- 2015/11/29 00:30
- 更新日時
- 2015/12/05 14:21
- 管理番号
- 0000001336
- 質問
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解決
加賀の殿様は日本武尊の生まれ変わりと人から聞いたが裏付けるものはあるのか。
その殿様の墓の場所はわかるか。
- 回答
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加賀の殿様は日本武尊の生まれ変わり、という趣旨のことが書かれた文献は見つかりませんでした。
もともと加賀藩主の庭園であった兼六園には、日本武尊の銅像があります。
『特別名勝兼六園 』p454によりますと、これは明治10年の西南戦争の後に、石川県から出征した第七連隊の戦死者のための記念碑「明治紀念之標」の一部として作られたものだそうです。
日本武尊の銅像が乗っている理由について『金沢古蹟志』という明治24年の本を引いて2つの説が紹介されています。
ひとつは、日本武尊は熊襲国すなわち薩摩・日向を征伐したとされる人物であることから、西南戦争で薩摩軍と戦った兵士の記念碑としたと言う説です。
もうひとつは、「東夷」を征伐中の日本武尊が北陸に来たとき、兄が援軍を連れてきたのをよろこんで「賀を加えたり」と言ったのでこの地に加賀という名が付いた、という伝説があり、日本武尊は石川と縁があることから記念碑とした、という説です。(なお、「加賀」が「賀を加えたり」からきているという話は他に『富樫家譜』『越登賀三州志』などにも出ているようですが、『金沢古蹟志』や『加能郷土辞彙』には、あくまでも伝説であり歴史的な事実とは考えにくいとも書かれています。)
また、石川県の津幡町加賀爪に日本武尊をまつる「白鳥神社」があります。『津幡町史』p449には、「仲哀天皇の時に越の国から(日本武尊の霊が化したとされる)白鳥四隻を貢った(『津幡町史』の表記ママ)と日本書紀に書かれているのは実は加賀爪からで、そのために(加賀爪に)日本武尊を祭った」との伝説があるという趣旨のことが書かれています。
以上から、藩政末期~明治時代には「日本武尊は石川県と関係のある人物」という話は存在したようです。
「生まれ変わり」については人から聞かれた話ということでしたが、一般論として、口伝えであれば人から人へと伝わるときに話が多少変化するということはありえると思います。
歴代の加賀藩主の墓は金沢市の野田山にあります。歴代藩主を中心に藩主正室、生母、子女ら計84基の墳墓が集まっており、平成21年に国の史跡に指定されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 伝記 (28 9版)
- 参考資料
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- 1 特別名勝兼六園 本編 橋本確文堂企画出版室∥編 橋本確文堂企画出版室 1997.2 K292.2/153 p454
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2 金沢古蹟志 上巻 森田 平次∥著 日置 謙∥校 歴史図書社 1976 K222/64/1 p545 -
3 加能郷土辞彙 改訂増補 日置 謙∥編 北国新聞社 1979.6 K030/1 「ヤマトタケルノミコト」の項 -
4 津幡町史 津幡町史編纂委員会∥編 津幡町 1974 K221/13 p449 -
5 国史跡加賀藩主前田家墓所 金沢市文化財保護課?編集 金沢市文化財保護課 2012.9 K280.9/1011
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000184662