レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年01月20日
- 登録日時
- 2012/01/20 15:26
- 更新日時
- 2012/08/30 13:50
- 管理番号
- 97-D-19
- 質問
-
解決
喜多郡にある三重城(質問者はミエジョウと読む)には、白米城伝説があったと聞くが、その城はどこにあったか。
- 回答
-
三重城は、大洲市蔵川木谷と喜多郡五十崎町重松(現在は喜多郡内子町五十崎 重松)にある。
白米城伝説があった城は、大洲市菅田町大竹の松野城(松城)である。
- 回答プロセス
-
(1)【資料1】【資料2】で三重城という名の城があったかどうか調べると、大洲市蔵川木谷に三重の城(サンジュノシロ)、喜多郡五十崎町重松に三重城(サンジュウノシロ)があった。各城に白米城伝説があるかどうかは不明。
(2)白米城伝説について【資料3】で調べると、p134に松野の白米城についての記載があった。
“喜多郡内子町菅田の大竹にはかつて松野城という城があった。矢野若狭守行定というのが城主であったが戦国の昔長曽我部元親がこの城まで押しよせてきた。城の南にある用水路を断たれては城は水に困りいつ落城するかわからぬ形勢となった。(略)ところが城中に智将があって白米に灰をまじえて庭に打ち水しているように見せかけた。長曽我部の軍は落城を今やおそしと待っていたのに城中にはまだ水があったのかと驚きおそれた。(略)”
(3)【資料4】の「大竹村喜多郡川辺郷現」の項(p78~92)に、次の記載があった。
“松城 矢野若狭守行定
(略)
長曽我部うそへ口と云所に陣を取、数日松の森を攻れ共落ちず、依て城南井手を堀切、水を断、日を経て水にかつして労れをなす故、白米にはいを交へ、庭に水打ち体をなし、或は塀の上より打捨杯して見せければ、高山より遠目に見て、井水や有りと思ひ(略)”
(4)上記(2)の喜多郡内子町菅田という地名はなく、大洲市菅田町大竹のことだと思われる。また、(3)の大竹村喜多郡川辺郷は現在の大洲市菅田町大竹なので、白米城伝説があるのは大洲市菅田町大竹にあった松野城(松城)のことであろう。
(5)【資料5】は古記録における城の記述を抜き書きしたものだが、p265に「松の城」、p271に「三重〔さんじゅう〕の城」という項目がある。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 四国地方 (218 9版)
- 参考資料
-
- 【資料1】 『愛媛県中世城館跡』 愛媛県教育委員会文化振興局/編集 愛媛県教育委員会 1987年 <請求記号:K209 /74>
- 【資料2】 『伊予の古城跡』 長山源雄/編 伊予史談会 1982年 <請求記号:K200 /34>
- 【資料3】 『四国路の伝説』 武田明/編著 第一法規 1973年 <請求記号:K388 /43>
- 【資料4】 『予陽叢書 8 大洲旧記 巻上』 曽我鍛編纂 予陽叢書刊行会 1938年 <請求記号:K200 /2 /8> (臨川書店刊 1973年復刻版もあり)
- 【資料5】『伊予の古城跡 改訂3版』 伊予史談会 1998年 <請求記号:K200 / 34 / カイ2>
- キーワード
-
- 大洲市-伝説 おおずし でんせつ
- 白米城伝説 はくまいじょうでんせつ
- 松の城 まつのしろ
- 三重の城 さんじゅうのしろ
- 松野城 まつのじょう
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 事例出典『郷土資料に関する調査・相談事例集』 愛媛県図書館協会・愛媛県立図書館/編集 愛媛県立図書館 1997年
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000100424