レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/03/03
- 登録日時
- 2009/05/09 02:10
- 更新日時
- 2009/05/12 15:30
- 管理番号
- 埼浦-2008-082
- 質問
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未解決
太平洋戦争の終戦直前、戦時中で物がなかった頃、大宮の洋品店では、どのような物を販売して生計を立てていたかを知りたい。
- 回答
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終戦直前の大宮の洋品店で、販売されていた物について書かれた資料は見つけられなかった。
太平洋戦争末期に衣料切符が発行され、配給となっていたことが調査過程でわかったため、衣料切符について書かれた埼玉関係資料を紹介した。回答プロセスをあわせて参照のこと。
『新編埼玉県史 通史編6 近代』p1078-1079「生活物資の切符制」
『大宮市史 4 近代編』p412の記述。
『戦時の装い そのとき日本人は何を着ていたか』(埼玉県平和資料館 〔2006〕)p22-23の記述。また、p24-25「国民服・もんぺ・標準服はどれだけ着られたか」にも関連記述あり。
『新聞広告美術大系 15 (昭和戦時下編 (昭和11年~20年))』の広告記事。
- 回答プロセス
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『大宮市史』『新編埼玉県史』を調査したが、該当する記述なし。
『社会科研究 第24号』(埼玉県立大宮高等学校社会科研究部 1981)「戦時下の大宮」には、衣料については記述なし。参考文献として紹介されていた『大宮銀座通り80年のあゆみ』(大宮銀座商店街協同組合 1974)を調査したが、戦時中の洋品店については記述なし。
衣料切符について書かれた埼玉関係資料
『新編埼玉県史 通史編6 近代』
p1078-1079「生活物資の切符制」によると、「太平洋戦争が始まる頃には、衣料品の需給状況はさらに悪化し、17年2月からは、全国的に、繊維製品の点数切符による配給を実施することになった。これは、市では一人100点、郡部では80点の切符を配布し、購入時に背広一着50点、袷48点、ワイシャツ12点というように、あらかじめ定められた点数を切りとり、代金とともに提出して購入するというものであった。(中略)戦争末期の二十年になると、衣料切符の発行は停止されてしまった。」
『大宮市史 4 近代編』
p412「原料の輸入難から不足していた繊維製品も昭和17年から全国で衣料切符が発行され、都市100点農村80点の点数制により製品が配給されることになったが、現実には製品の入手は困難となり昭和20年には切符の発行さえ停止されてしまった。」
『戦時の装い そのとき日本人は何を着ていたか』(埼玉県平和資料館 〔2006〕)
p22-23「衣料切符制は機能したか」によると、「今、戦時中の衣料事情を調べると、切符による配給制度についての情報が非常に多いことに気づきます。しかし、当時の政府系の写真雑誌『寫眞週報』にさえ、当時、たくさんの衣服を所有している人がいたことや、衣料切符が使われずにいたことが記されています。(中略)デパートでは高級衣料やさまざまな洋装が売られていましたし、開戦前のファッショナブルなモードの衣類は、戦災にあわない限り、戦時中を通じて当時の人々に所有され、もちろん着用もされていました。」とある。
p24-25「国民服・もんぺ・標準服はどれだけ着られたか」によると、「衣料の新調が無理でも、それ以前の衣類がそのまま用いられていたことがわかります。」とある。
『新聞広告美術大系 15 (昭和戦時下編(昭和11年~20年))』
地域は埼玉県ではないが、p480に服のリメイクの広告がある(昭和19年)。p481には、戦後(昭和20年9月)、休業していた洋服仕立屋が開業した広告がある。
- 事前調査事項
- NDC
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- 衣食住の習俗 (383 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 衣料品-歴史
- 太平洋戦争(1941~1945)-経済-埼玉県
- 大宮-さいたま市-埼玉県-歴史
- 風俗-習慣-歴史
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000054564