レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年09月04日
- 登録日時
- 2011/11/22 16:45
- 更新日時
- 2012/03/01 17:32
- 管理番号
- 埼熊-2011-119
- 質問
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解決
西郷隆盛の弟、西郷従道が埼玉・群馬を経由して新潟へ出たということについて、具体的な内容が書いてある資料が見たい。
- 回答
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群馬県立図書館に問い合せた結果、『群馬県勢多郡敷島村誌』に西郷従道が清水越新道の開通式に臨席したという記述があることと、国立公文書館にある公文書に「卿西郷従道清水越新道開通式へ臨場被免ノ件」というものがあることがわかった。
◆清水越新道開通式に西郷従道が臨席したことについて記述のある資料
『群馬県勢多郡敷島村誌』(群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会編 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会 1959)
p379-381「清水越往還の開通」
「(前略)明治18年9月7日開通式を挙行したものである、此時北白川宮は馬車に乗って長岡迄行かれたと伝えられている、その開通に際しては北白川宮の初巡視で、西郷従道以下を伴われ、棚下の藤屋に於て御少憩になった」
◆インターネット情報
《国立公文書館デジタルアーカイブ》を〈西郷従道 & 清水越新道〉で検索した結果から次のものがヒット。(マイクロフィルム)
件名:卿西郷従道清水越新道開通式ヘ臨場被免ノ件
請求番号:本館-2A-010-00・公04079100
件名番号:009
作成部局:太政官
年月日:明治18年07月
マイクロフィルム: リール番号:056900、開始コマ:0726
(http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/MetSearch.cgi 国立公文書館 2011/08/27最終確認)
- 回答プロセス
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以下の資料を調査するが、関連する記述は見つからず。
◆西郷柔道からの調査
『図説*西郷隆盛と大久保利通』(芳即正編著 毛利敏彦編著 河出書房新社 2004)
p64「明治元年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、右耳下斜めに貫通銃創を受け、続く北陸戦争には参謀の隆盛とともに鹿児島へ新潟へと行動をともにし、」とあり。
『近世日本国民史 74 北越戦争篇』(徳富猪一郎著 平泉澄校訂 1969)
p312-「西郷吉之助、北越出張」の項あり。西郷新吾(従道)の名あるが、行程は海路。
『図説人物海の日本史 9 文明開化の波』(毎日新聞社 1979)
p93-108「西郷従道 近代海軍の創始者」(時野谷勝著)
p95に「ついでに上野の彰義隊討伐にも加わり、越後口での長岡藩兵との激戦にも参加した」とある。
◆清水越新道開通式からの調査
『新聞集成明治編年史 6 欧化政治期 明治18年-20年』(新聞集成明治編年史編纂会編 新聞集成明治編年史頒布会 1965)
p149「清水越開道式と其の沿革」(9.10 官報)の記事あるが、西郷従道の名はなし。
『子持村誌 上』(子持村誌編さん室編集 子持村(群馬県) 子持村 1987)※出典の資料とは「誌」「史」違い。
p1134「清水越新道落成開通式」の項があるが、西郷従道の名はなし。
「東京から高崎までは汽車を利用し、高崎から湯桧曽村までは、開鑿された清水越新道を、馬車・馬・御駕籠・人力車などを乗り継いで、通過していった。」とあり。
『峠の道路史 道の今昔と峠のロマンを訪ねて』(野村和正著 山海堂 1994)
p105「18年8月清水国道として完成した」とあるが、開通祝賀式についてはふれていない。
『上野国郡村誌 2 勢多郡』(群馬県文化事業振興会 1978)
p122-127 棚下村についての記述あり。ただし、明治10年7月の記述なので、開通式なし。
『利根郡誌』(郡馬県利根教育会編 群馬県利根教育会 1970)
p163-165 開通式の様子が記述されているが、西郷従道及び有栖川宮殿下の名なし。
p163「…臨場の貴顕は 北白川宮殿下山を始め山縣内務卿 山田司法卿 三浦陸軍中将 林楫取 両元老院議官 内務司法書記官 三島土木局長 群馬新潟両県令 その他関係官公署長にして…」とあり。
経路は、湯桧曽-新潟間について、僅かに記載あり。
p164「宮殿下一行は、其日湯桧曽に一泊、翌日未明に御出発正午国境なる仮御殿にて御昼食の上、新潟県に入り六日町に御宿泊あらせらる。」宿泊者名簿にも西郷従道の名なし。
『新聞集成明治編年史 10 東洋問題多難期 明治30年-32年』(新聞集成明治編年史編纂会編 財政経済学会 1971)
索引から明治32年の西郷従道の掲載ページを確認するが、清水峠に関する記述なし。
◆〈有栖川宮〉からの調査
『威仁親王行実 巻上』(高松宮家 〔1926〕)
p7-8 明治18年の略年譜に開通式の記述なし
p19 明治32年にもなし
『幟仁親王行実』(高松宮編 高松宮家 1933)
p35 念のため先代幟仁親王の略年譜も見るが、明治18年に開通式の記述なし。
群馬県立図書館に調査を依頼し、以下の回答を得る。
◆清水越新道の開通式の記述はあるが、西郷従道についての記述はなかった資料
「赤城村の文化財 写真集」(須田武雄解説 新井幸人写真 写真集「赤城村の文化財」発行委員会 1980)
p134「棚下宿の名残り」
赤城村(現在は渋川市)藤屋の表看板の解説の中に、「明治18年清水越新道の開通には北白川宮能久親王が顕官を多数供奉して棚下を通過された。その際、藤屋(当主茂木博氏)」が御休憩所となった。」という記述があるが、西郷従道の名はなし。
「町誌みなかみ」(町誌みなかみ編纂委員会編 町誌みなかみ編纂委員会 1964)
p327-328 開通式(明治18年9月17日)の記事あり。祝辞・答辞・宿割りなどあるが、西郷従道の名はなし。
「古馬牧村史」(古馬牧村史編纂委員会編 古馬牧村史編纂委員会 1972)
a776-777 開通式(明治18年9月7日)に向かう一行の記述あり。6日に真庭村で休憩した際の家割り状況。
(「高橋平治兵衛日記」から)及び御休憩所標札の写真があるが、西郷従道の名はなし。
「渋川市誌 3 通史編 下 近代・現代」(渋川市誌編さん委員会編 渋川市 1991)
b118-119 式参加者が高崎で一泊し、高崎から馬車・馬・駕籠などを乗り継ぎ渋川駅にて小休止をし、通過していった旨記述があるが、西郷従道の名前はなし。
「群馬町誌 通史編 下 近代現代」(群馬町誌編纂委員会編 群馬町誌編纂委員会 2002)
p93-94 開通式式典参加者が通過する当日には各戸毎に国旗を掲げることが指示されたことなどが書かれているが、西郷従道の名前はなし。
「清水峠越往還 歴史の道調査報告書(群馬県歴史の道調査報告書 6)」(群馬県教育委員会文化財保護課編 群馬県教育委員会 1981)
p953-957 清水越新道開通式報告(「官報」第660号から引用)
「新潟県史 通史編6 近代1」(新潟県編 新潟県 1987)
p697 開通式の記述あるが、西郷従道の名はなし。
「新潟県史 資料編15 近代3 政治編1」(新潟県編 新潟県 1982)
p442-443 国立国会図書館憲政資料室所蔵「三島通庸文書」から引用された道路開鑿委員山城祐之の「清水越開鑿ヲ祝ス」が載っているが、西郷従道の名はなし。
調査済み資料
『群馬県史』(全4冊)(群馬県教育会編 群馬県教育会 1927)
『新編高崎市史 通史編4 近代現代』(高崎市史編さん委員会編 高崎市 2004)
『高崎市史』(全3巻)(高崎市史編さん委員会編 高崎市 1968)
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
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- 『群馬県勢多郡敷島村誌』(群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会編 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会 1959)
- キーワード
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- 西郷 従道(サイゴウ ツグミチ)
- 群馬県-歴史-史料
- 照会先
- 寄与者
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- 群馬県立図書館
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097086