レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/02/11
- 登録日時
- 2015/03/25 00:30
- 更新日時
- 2015/05/17 10:05
- 管理番号
- 6000015141
- 質問
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未解決
野田町と庄内幸町の間などにかつてあった野田輪中堤について、いつごろできたのか、どこからどこまで続いていて、なぜ造られたのかなどがわかる本があれば見たい。
- 回答
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『とよなかの史跡巡り』などに、野田小学校の南にある野田堤についての記載がある。野田町を含む庄内地域の水利については、『聞き書き 水とくらし』などに詳しい。
- 回答プロセス
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郷土資料の書架を探す。
『とよなか歴史・文化財ガイドブック』(豊中市教育委員会)p66「野田輪中堤」(のだわじゅうつつみ)には、野田堤の簡単な説明と写真があるが、いつごろできたかの記載はない。
『わたしたちの郷土 野田』(豊中市立野田小学校)p58「輪中集落・環濠集落」には、庄内地域は天竺川・神崎川・猪名川と防水堤によってまわりを堤防で囲まれている輪中集落だったこと、
天竺堤沿いに野田(のだ)・三屋(みつや)・牛立(うしだて)、
神崎川の旧堤防沿いに菰江(こもえ)・洲到止(すどおし)、
猪名川堤に沿って庄本(しょうもと)・島江(しまえ)、
北の防水堤にそって島田の八つの集落があり、島田はまわりに濠を掘った環濠集落でもあったことの記載がある。
p66には野田小学校の南の塀に沿って残っている野田堤の写真あり。
『聞き書き 水とくらし』(豊中市立教育研究所)p46-47「庄内地域の用水について」には、豊中市南部の地形について、島江・大島・洲到止が低く、野田小学校付近の稲津(いなづ)・服部(はっとり)は高いため、洪水のときは北から水が流れてきて庄内地域が水浸しになってしまうので、野田小学校のところの野田堤で上流の水を止め、堤防に沿った溝を通して猪名川に水を落としていた、との記述がある。
『聞き書き 水とくらし 第二集』(豊中市立教育研究所)p56-60には、天竺川が決壊した際には北の穂積村の南の堤防と野田堤の間を水が流れるようにするなどの、水害への備えについて詳しい。p61「豊中市全図 昭和35年8月測図」で、天竺川から猪名川まで続く輪中堤の様子を見ることができる。
『とよなかの史跡巡り』(瀧健三)p117-118「旧庄内村(町)防水堤」および「野田堤の争い」には、天竺川から猪名川までの堤防は旧庄内町の大字野田・牛立・菰江・島江・庄本・洲到止・島田の各村が資金を出し合って築堤したこと、野田が最も負担が大きかったため江戸時代は「野田堤」と呼んだこと、寛政2年(1790年)には野田堤の補強工事がもとで争いが起こったことなどの記載があり。
『豊中の史跡・余話』(瀧健三)p121-122「庄内排水路記念碑」にも、野田堤付近の水利についての記載があり。
『郷土 庄本の歴史を中心として』(郷土の歴史研究会)p93-98「水論」には、寛政2年の訴訟のほか、庄内地域の水害に関する争いについて詳しく、p98には、野田堤をめぐっては元禄10年(1697年)をはじめ数度の出入りがあったとの記載があり。
『新修豊中市史 第1巻 通史1』(豊中市)p275-276「野田秋永・秋永」には、文治5年(1189)の「文治5年田畠取帳」には、近世の長嶋村(現在の豊南町西)や穂積村南部・野田村(野田町)付近に「秋永」「野田秋永」などの注記があること(当初の記載かは不明)、明徳元年(1390年)の「摂津国三国堤支配注進状案」には、「野田秋永」は榎坂村・穂積庄などと並んで神崎川の「三国堤」の修築役を負担していたことの記載があり。p276の図によると、「秋永」が所在する坪は野田輪中の外に位置するものが多いようではあるが、秋永名は神崎川沿岸低地帯の開発経営と関わりがあったと考えられるとのこと。p371-380「第4章 中世後期社会の展開 第3節 民衆の動向と地域社会 1低湿な耕地と検注」には、14世紀末から15世紀にかけての、主に野田堤北側にあたる地域の水防についての解説があるが、現在の庄内地域にあたる村々の水防についてはふれていなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 野田堤(ノダツツミ)
- 輪中(ワジュウ)
- 庄内(ショウナイ)
- 豊中市(トヨナカシ)
- 水防(スイボウ)
- 歴史(レキシ)
- 治水(チスイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 庁内
- 登録番号
- 1000169790