レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007年10月05日
- 登録日時
- 2007/10/05 11:57
- 更新日時
- 2007/10/12 12:43
- 管理番号
- 奈県図情-07-010
- 質問
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解決
明治のはじめに奈良県の権令だった藤井千尋について知りたい。
- 回答
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藤井千尋(フジイ チヒロ)については、明治6~9年に奈良県権令であったことや氏の奈良時代の業績がわかる程度で、それ以上のことはプライベートなことも含めて資料もなく不明です。同様に奈良在住以後の氏の動向は全くわかりませんでした。
廃藩置県後、最初の県令であった四条隆平(シジョウ タカトシ)の退任後、青山貞(アオヤマ テイ)が奈良県権令に就任する予定でしたが、赴任しないまま他の任務につき、代わって堺県参事であった藤井が明治6年11月19日に奈良県権令に就任したといういきさつがありました。奈良在任期間中の業績ととしては、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などがあげられますが、とくに奈良博覧会社の設立と明治8年から始まる奈良博覧会の実施は氏の在任期間中の大きな事業の一つであったといえましょう。明治9年4月、奈良県が廃止され、堺県に合併されましたが、藤井権令のその後の動向はわかりません。
ちなみに、当時県令は原則として奏任四等に位置づけられ、地方行政長官として中央集権政治を支えました。奏任五等に相当するのが権令で、県令の代わりに派遣されることがあったといわれています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』 奈良県 1987
- 『奈良県の歴史』 (県史29) 山川出版社 2003
- キーワード
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- 藤井千尋(フジイ チヒロ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000038013