レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年02月26日
- 登録日時
- 2024/02/09 12:04
- 更新日時
- 2024/03/12 15:55
- 管理番号
- 新県図-01560
- 質問
-
解決
上杉憲政が上野国を逃れてから謙信に関東管領の地位を譲るまでの間に書いた文書
- 回答
-
上杉憲政や上杉氏関係史料を掲載している当館所蔵資料を、目次や索引を基に確認したところ、下記(1)~(8)の資料が見つかりました。(上杉憲政が上野国を逃れた日付については複数の説があるようですので、天文21年以降の文書をご紹介しています。)また下記(9)~(10)の資料には、作成年未詳とありますが、該当の時期の可能性がある文書が掲載されていましたので、参考までにご紹介いたします。なお、同一の文書が複数の資料に掲載されているものもすべてご紹介しています。
(1)『山内上杉氏』(黒田基樹/編著 戎光祥出版 2014)
p267~306「上杉憲政の発給文書について」、 p307~335「上杉憲政文書の研究―とくに花押を中心にして―」の項に、該当の時期に書かれた文書も複数紹介されています。
(2)『上越市史』別編1 上杉氏文書集1(上越市史編さん委員会/編 上越市 2003)
「天文二十一年」の項内p30「上杉成悦書状」に5月24日に長尾政景へ送った書状、p39には7月3日に平子孫太郎に送った書状が掲載されています。
「弘治四年・永禄元年」の項内p79~80「上杉憲政判物」に5月5日に長尾孫六(憲景)へ送った書状が掲載されています。
「永禄3年」の項内p105「上杉光哲書状」に4月21日に長尾政景に送った書状、p110「上杉光哲安堵状」が掲載されています。
(3)『新潟県史』資料編 第3 中世 第1 文書編 第1(新潟県/編 新潟県 1982)
p170「上杉憲政書状案」の項に、8月13日付の遊行宛の書状が掲載されています。巻末の編年目録では、永禄初年と推定されています。
(4)『新潟県史』資料編 第5 中世 第3 文書編 第3(新潟県/編 新潟県 1984)
p521「上杉成悦 憲政 書状」の項に、天文21年5月24日に長尾政景に送った書状
p521~522「上杉光哲 憲政 書状」の項に、永禄3年4月21日に長尾政景に送った書状
p717「上杉光哲 憲政 安堵状」の項に、永禄3年9月27日付の文書
p82「上杉憲政書状」の項に、年の記載はありませんが、6月18日に雲洞庵衣鉢侍者禅師に送った書状
(5)「上杉憲政の越後入国時期に関する一考察」(諸井幸枝/著 『頸城文化』60号 上越郷土研究会 2012年9月 p22-30)
該当の時期に書いたものも含め上杉憲政の書状が複数紹介されています。
(6)『関東管領・上杉一族』(七宮涬三/編 新人物往来社 2002)
「第九章 関東管領憲政の没落」内「憲政、越後に逃れる」の項p266に「天文二十一年五月二十四日付けの憲政(成悦)から越後上田の長尾政景宛ての上野出撃準備の書状がある。」として、書状の一部が活字化され紹介されています。
「終章 最後の関東管領・上杉謙信」内「越後の憲政と景虎」の項p270にも天文21年7月3日に平子孫太郎へ送った書状の一部が紹介されています。また同章「景虎の越山をめぐる情勢」の項内p279にも長尾政景宛の書状の一部と思われる言葉が紹介されています。
(7)『歴代古案』第2(羽下徳彦/〔ほか〕校訂 続群書類従完成会 1995)
p140「上杉成悦 憲政 書状」の項に、7月3日に平子孫太郎へ送った書状が掲載されています。
日付の箇所に「永禄元」(天文二十一年)と朱書きがあるとの記述があります。
(8)『上杉家御書集成』1(上越市史専門委員会中世史部会/編 上越市 2001)
p200整理番号331の項に、天文21年7月3日に平子孫太郎に送った書状が活字化され掲載されています。
(9)『歴代古案』第3(羽下徳彦/〔ほか〕校訂 続群書類従完成会 1998)
p203「憲當 上杉憲政 書状」の項に、9月11日に長尾政景に送った書状が掲載されています。
「憲政と政景の関係から天文二十一~永禄六年の間のもの」とあります。
(10)『上杉家文書』第1(東京大学史料編纂所/編 東京大学出版会 1971)
p433~434「上杉憲政書状案」の項に8月13日付の遊行宛の書状が掲載されています。
※年未詳とありますが、「永禄初頭ヲ降ラザルモノナル」と記述があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 北陸地方 (214 10版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 上杉憲政
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000346185