レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024/3/1
- 登録日時
- 2024/03/29 00:35
- 更新日時
- 2024/03/29 00:35
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-001135
- 質問
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解決
【戦前の金沢市北町周辺の土地利用について】 明治、大正、昭和戦前あたりに金沢市北町周辺の土地がどのような用途で使われていたか。
地図や記録があれば見たい。
- 回答
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『角川日本地名大辞典 17』(118552562)p.312に北は、「明治22年~昭和18年の戸板村の大字名。」とある。
またp.597に戸板村は、「明治22年~昭和18年の石川郡の自治体名。大豆田・二口・北・若宮出・二ツ屋・二口六丁・薬師堂・若宮・渕上・桜田・示野・示野中・北広岡・南広岡・長田・西念新保16か村と中村(字向中)・増泉村(字向増泉)の各一部が合併して成立。」とある。
『二万分一地形図』(明治43年陸地測量部発行)より、果園と田が広がっているのが確認できる。
『戸板村史』(118414323)p.350に「古來戸板村は(中略)主として水稲栽培に精魂を傾注し、(中略)他面戸板村獨特の梨園經營者も漸次增加の一途を辿り、加賀梨の本場として世評嘖々、村民又栽培技術の研究に専念し經濟的生活面の充足と相俟つて梨園の面積は逐年擴張さるゝに至れり。又、金澤なる一大消費市場を控へて、近接部落には蔬菜の栽培面積も累年的に擴張せられ養鶏、養畜、養蠶等も明治、大正年間活?に行はれ」とある。
またp.352に、明治25年から昭和15年までの「田畑自作小作地表」、昭和16年から同18年までの「最近三ヶ年水田自小作地別」の表もある。
p.360-361に明治27年から昭和11年までの「米穀各年段當收量表」、大正2年から同15年までの「粳、糯別作付面積及收穫累年調」もある。
p.363に以下の内容の記載がある。
加賀梨の栽培は石川郡戸板村字北を鼻祖とし、明和六年春村人市右衛門なる者が村内木引川の邊に栽植する。
後ち文化九年本村字若宮八左衛門が多數の梨樹を購入し栽培し漸く増加する。嘉永四年になり、北以外にも広まって栽培戸數百六十九戸の多きに達する。日清戦役後、栽培面五十町歩の多きに達した。
またp.365-366に、明治34年から大正10年までの「梨作付反別樹數收穫高調」の表もある。
P.366に「戸板村一帶の加賀梨名園」、p.367に「私共の村へ梨の樹が移入されたのは今をさる三百有餘年以前の明和年間であった。當時北といふ部落(金石往環淵)に居住してゐた市左衛門なる一人の行商人が、越後の國へ焼物の行商に行つた片手間に二、三本携へて歸つて木引川の流域に試作したのが嚆矢である。」とある。
p.370-372に明治25年から同45年まで、大正2年から同15年までの「農産物收穫高調」、明治25年から昭和10年までの「桑作付面積竝繭生産額調」、明治26年から昭和10年までの「家畜飼養調」の表もある。
『戸板公民館五十周年記念誌』(109216613)p.1に「旧戸板村は、現在の二口、長田、北広岡、西念、新保、二ッ屋、若宮出、北町、示野、示野中、桜田、出雲、薬師堂、若宮、大豆田、南広岡、向中、向増泉、二口六丁等の集落を含む地域である。明治二十一年、市町村制の公布を受けて戸板村が誕生した。(中略)産業の主体は農業で、総戸数の三分の二がこれに従事していた。米作が主であり、ついで梨作りも盛んに行われた。県下一の梨の産地で、全国的にその名を知られていた。」とある。
『戸板のあゆみ』(119579220)p.67に北村のプロフィールとして「明治初年には穀物・蔬菜類のほかに麻・藍・菜種・梨・鉄器などを産しており」の記載あり。
p.92-93に皇国地誌の北村分が記載されている。
p.115に北町舊地名一覧(戸板公民館郷土資料)の地図が掲載されている。
p.304に「往時は、戸板地区全町、くまなく梨の木のない町がないまでに盛んに栽培され、昭和二年の記録では作付面積五九・二反、四五、五九六本が植付けられていた。」とある。
p.431に「(11)加賀梨の産地 梨樹三万五千本 水田の間に点綴される棚 素晴らしい工場街」に、昭和2年、同12年の農産物、畜産物の生産額の比較に関する記述がある。
『石川県史資料 近代篇2』(119562939)p.335-338に皇国地誌の北村分が記載されている。
『戸板の今と昔』(118622406)p.149-150に戸板村史より抜萃した、「加賀梨」の記述
と「梨作付反別樹數收穫高調」の表がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000348218